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羽生善治

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羽生善治は1970年9月27日に埼玉県所沢市に生まれ日本の棋士です。1985年に中学生でプロ棋士となり1989年に初タイトルとして竜王位を獲得しました。2017年12月5日に第30期竜王戦で15期ぶりに竜王位を獲得し、2018年には棋士として初めて国民栄誉賞を授与されました。

ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。
何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。
基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。
守ろう、守ろうとすると後ろ向きになる。守りたければ攻めなければいけない。
勝つのは一点差でいい。五点も十点も大差をつけて勝つ必要はない。常にギリギリの勝ちを目ざしているほうが、むしろ確実性が高くなる。
勝負では、知っていることに自分の思考とか、アイデアをプラスしないと意味がないのですが、知っているというその一点だけで、有利になるということもよくあるんです。
平均点を目指すと、限界も決まってしまう。
もちろん勝負に勝つというのも大事なんですけど、そのためにいつも決まり形でやっていたら、そのことで将棋をやっている意味があるのかということに、どうしてもぶつかってしまうんです。
決まり切った局面で長考して時間を使って疲れるより、勝負どころの場面で、深い集中力を発揮できることが大切。
精神的プレッシャーには、開き直りで立ち向かう。
平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。
プレッシャーを克服するには、経験が大きく役に立つ。机上の勉強や練習では養えない。実戦の中でいろいろな局面にぶつかり、乗り越えることでしか身につかないものなのだ。
勝敗を決定するのは、“ただの一手”であったりする。絶妙の一手。あるいは絶妙に見えて最悪の一手。
自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。
大一番の対局では、誰しも手堅く、安全、確実な道を選びたくなるものだ。自分もそうすることがよくある。しかし、確実にという気持ちに逃げると、勝負に勝ち続けるのは難しくなってしまう。
見た目にはかなり危険でも、読み切っていれば怖くはない。剣豪の勝負でも、お互いの斬り合いで、相手の刀の切っ先が鼻先1センチのところをかすめていても、読みきっていれば大丈夫なんです。
成長は、没頭することなしには得ることが出来ません。人間が没頭出来るのは本能を満たしている時だけです。成長はいつだって本能とともにあるのです。
将棋は厳然と勝ち負けの結果が出る。「道」や「芸」の世界に走ると言い逃れができる。だが、それは甘えだ。勝負に負けたけれど、芸や道では勝ったとか。私は、厳しいがドライに割り切って考えるべきだと思っている。
物事を忘れるのは、脳がそれを必要としないと判断したから。
私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。
誰もが怖くて「できなかった」分野で画期的な何かが起こる可能性がある。「できなかった」というのは、それを諦めること(とイコール)ではない。そこを避けて通ったり、ちょっと考え方を変えれば新しい方法が開ける。そして、何年かたつとそれがメジャーになって落ち着いてくるということも考えられる。
20代には20代にしかできない将棋がある。
興味が続くかぎり、集中力は続くものです。
新しい試みがうまくいくことは半分もない。でもやらないと、自分の世界が固まってしまう。
「プレッシャーはその人の持っている器に対してかかるものだ。  器が大きければプレッシャーを感じることがないはずだ」と自分に言い聞かせています。
ほんとうの勝負は定跡(じょうせき)を超えたところからはじまり、最後の決め手は情熱です。
損を一気に取り戻そうとすると、うまくいかないことが多い。
定跡(じょうせき)通りに始めても定跡と違う終わりを考える。
誰もがやっている決まりきった道筋で振りきってしまうと、結局、人の来た道をただ辿ってるだけということになります。
将棋にかぎらず、勝負の世界では、多くの人たちに、どれだけ信用されているか、風を送ってもらうかは、戦っていくうえでの大きなファクターであり、パワーを引き出してくれる源である。
先入観や思い込みを持っていると、「違う手もあるのではないか」「ゼロに近いことに挑戦しよう」という考えは思い浮かばない。新しい考えを試み、理解していこうという気持ちも起こらない。
勝負においては、自分が苦しいときは相手も苦しいのである。
経験を積んで選択肢が増えている分だけ、怖いとか、不安だとか、そういう気持ちも増やしてきている。考える材料が増えるほど「これと似たようなことを前にやって失敗してしまった」というマイナス面も大きく膨らんで自分の思考を縛ることになる。そういうマイナス面に打ち勝てる理性、自分自身をコントロールする力を同時に成長させていかないと、経験を活かし切るのは難しくなってしまう。
ただ一局一局を大切に、そこにだけ集中して指してきた。
深い集中力を得られるかどうかは、私の場合は、将棋を指していて、面白いと感じられるかどうかによる。楽しい局面かそうではないかで集中の度合いは全然違う。
自分にとって一番いいと思えるものを簡単に、単純に考えることができれば、逆境からの突破口を見出すことができるはずである。
漠然とした不安は、立ち止まらないことで払拭される。
ミスはミスを呼び、悪手は悪手を呼ぶ。プロがミスをしないのは、ミスしにくい局面を選択しているからなんです。本当に見たこともない新手は、閃きみたいものからしか生まれない。でも、それは、先入観をすべて捨てて考えないとなかなかできない。
(対局の)イメージが浮かぶのは序盤と終盤である。浮かんでしまえば、あとは中盤でその間のつじつまを合わせればいい。
夢は目指した時から、目標に変わる。
(対局中は)すでに過ぎ去ったこと(=ミス)は仕方がない。私は、意識的に先のことを考えるようにしている。反省は勝負がついた後でいいのだ。
(人間は)相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていく。
いちばんいいのは「自分の力」で、「自分の思考」で指し手をきめていけることです。定跡(じょうせき)を覚えるのは、そういう力を身につけるためにやる過程にすぎないんですね。
「いかに戦うか」は大局観にかかわるが、その具体的な戦略は事前研究が決め手になる。事前にしっかり準備して万全の態勢で、対局に臨んでくる人は強い。
山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。
一回でも実践してみると、頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。理解度が深まることで、頭の中が整理され、アイデアが浮かびやすくなる。新しい道も開けてくるだろう。
勝負の世界では、「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。組織や企業でも同じだろうが、常に前進を目ざさないと、そこでストップし、後退が始まってしまう。
全然ダメでお話にならないっていう時は、プレッシャーもかからない。
相手のことを知るよりも、自分自身が強くなればそれで済む世界だし、それを目指した方が本筋というか、王道という気がする。
直感には邪念の入りようがない。長く考えると言うのは道に迷っている状態なんですね。「勝ちたい」とか余計な思考も入ってくる。だから、いくら考えても分からない時は、最初に戻って直感にゆだねることがよくあります。
集中力がある子に育てようとするのではなく、本当に好きなこと、興味を持てること、打ち込めるものが見つけられる環境を与えてやることが大切だ。
定跡(じょうせき)を覚えて強くなるというのは、あんまり私は信用していません。定跡を覚えて弱くなるとはいわないけれども、瞬間的に力が落ちるような気もしますね。
将棋にかぎらず、勝負の世界では、たとえ失敗しても次のミスを防ぐことが大事だ。かっとなったら、それはできない。自分の感情をコントロールすることは将棋の実力にもつながるのだ。
人間は本当に追い詰められた経験をしなければダメだ。追い詰められた場所にこそ、大きな飛躍があるのだ。
私は、人間には二通りあると思ってる。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。
確かに負けている時の方が新しいことはやりやすいですね。どうせ今、状況が悪いんだから、何か違うことでもやるかという。とにかく良くなるまで色々手を尽くせばいいので、そういう時の方が思い切ったことはやりやすい。
三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する。
誰でも最初は真似から始める。しかし、丸暗記しようとするのではなく、どうしてその人がその航路をたどったのか、どういう過程でそこにたどり着いたのか、その過程を理解することが大切だ。
リスクをとらないことが最大のリスクだと思う。なぜなら、今日勝つ確率が最も高い戦法は、三年も経てば完全に時代遅れになっているからだ。
勝ち負けには、もちろんこだわるんですが、大切なのは過程です。結果だけなら、ジャンケンでいい。
ミスには面白い法則がある。たとえば、最初に相手がミスをする。そして次に自分がミスをする。ミスとミスで帳消しになると思いがちだが、あとからしたミスのほうが罪が重い。そのときの自分のミスは、相手のミスを足した分も加わって大きくなるのだ。
将棋を教える時に肝心なことは、教わる側が何がわかっていないかを、教える側が素早く察知することだと考えている。