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井上靖

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井上靖は日本の作家で、芥川賞を受賞し、戦後期を代表する作家として評価された。恋愛・社会小説を中心に書き、劣等感から来る孤独と人間の無常を描いている。

人間という奴は、一生のうちに何かに夢中にならんとな。何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で一番いいようだ。
愛とは自分の相手に対するものだ。問題は、それをきびしく守るかどうかと言うことだ。
本当のことを平気で言える相手もなかったとしたら、お前はこれまでの長い一生を、何のために生きて来たか判らないことになる。
結婚して何年かすると、みんな相手が古ぼけて見えて来るものだ。──なぜ、自分はこんな相手と結婚したんだろう。
人生がたった一年しか残されていないんなら、おれは本当に妥協なく生きてみたい。本当に会いたい人に会いたい。本当に話したい人と話したい。本当にやりたいことをやりたい。本当に行きたいと思うところへ行きたい。本当に見たいと思うものを見たい。一体、自分はこれまで何をしていただろう。
旅から苦難が消えてしまったといっしょに、旅情の宝石もまた消えてしまったのである。
結婚ということは、本来一種の当てものみたいなものです。充分調べて、これならいいと思って行ってもうまくいかないこともあれば、不承不承で結婚したのがうまく行く場合もある。
大体、人間というヤツは、年齢をとるとロマンティックになるよ。若い者はロマンティックだなんて笑うが、あれは本当は嘘だ。若い時は、驚くほど現実的だよ。
すべての子供にとって父親というものは常に完全でなければならぬもので、ここに子供と父親の悲劇の根源はあるようである。
戦争というものを振り返ってみた時、何とも言えぬ心の痛みと共に思い出されるのは、日本中に無数の“別れ”がばらまかれていたことである。
人間というものは、生きているということに多少の意義がないと、生きていけないものです。
夜毎、空には神秘な星の光が輝き、地上には正しく生きることを考え、悩みながら人間が生きている!
人生というものは、本当は金ではないと思うんですよ。しかし、金という目標を設けておくと、恐らく生き易いですね。
仁という字は人偏に二と書く。夫と妻、兄弟、姉妹、隣人と自分、患者と医者、全部、二人の関係です。人間二人の間に成立する道徳、約束事は、けっきょくのところ相手の立場に立ってものを考えるということ。つまり思いやりです。
人生は使い方によっては充分長いものであり、充分尊いものであり、充分美しいものである。
なろうなろうあすなろう明日は檜(ひのき)になろう
女は美しく装うことによって、自分以上の力を持つものでございます。女というものを、神様はそのようにお造りになっていらっしゃいます。
克己(こっき)という言葉を知っているか。克己とは自分に克(か)つことだ。非常に難しいが、人間が他の動物と違うところは、誘惑や欲望と闘って自分に打ち克つことができるという点だ。勉強するも克己、仕事をするのも克己、みな克己だ。
人間が一生を生きるには、その人生行路に於(お)いて、点もあれば、画(かく)もあれば、鉤(かぎ)もあれば、戈(ほこ)もあると思う。
借金しようが、泥棒しようが、一生涯にたくさん金を費(つか)っちまった奴が、やはり金持ちと呼ばれるべきでしょう。
自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろう。
人間は、何か目当てがないと生きて行けないのだ。
人間の苦しみの中で、猜疑心という奴が一番苦しいものかな。火刑(ひあぶり)よりも磔(はりつけ)よりも苦しいかも知れないな。
「あすは檜(ひのき)になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。 でも、永久に檜にはなれないんだって! それであすなろって言うのよ」「僕だけかな」「何が?」「あすなろなのは!」「だって貴方はあすなろでさえもないじゃありませんか。 あすなろは、一生懸命に明日は檜になろうと思っているでしょう。 貴方は何にもなろうとも思っていらっしゃらない」
女というものは、夫が何をしていてもいいんです。ただ、それに協力して、いつでも夫と一緒にいたいんです。愛情というものはそういうものよ。
幸福は求めない方がいい。求めない眼に、求めない心に、求めない体に、求めない日々に、人間の幸福はあるようだ。
本当のことを言うことで、本当のことを言う相手を持つことで、お前はこの世に生きて来たことを肯定しようとしている。自分の人生に意義を見出そうとしている。
女は好きな人と結婚しなけりゃだめよ。好きな人だったら、その人のために、どんな苦労したって、後悔しないと思うの。お金も、地位も何も要らない。大切なのはその人が好きだってことね。
これまでとまったく違った新しい人生というのは、十五年ぐらいかけてチャレンジすると、かなり達成できるものなんですよ。
努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。
地球上で二人が顔を合わせたら、そこには一つの約束がある。何だといったら相手の立場に立って物を考えよう。「仁」ですね。いわゆる思いやりです。
人間のやることに結末などはつけられないのだ。いつだって、中途半端なのだ。しかし、それでいいではないか。そもそも結末をつけようというのが、おこがましい限りだ。
年齢というものには元来意味はない。若い生活をしているものは若い。老いた生活をしているものは老いている。
若い人たちはもっと積極的に一期一会の精神を、日々の生活の中に生かすべきである。
愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん。人間が信じられなかったら、人間を信じないで生きてごらん。生きるということは、恐らく、そうしたこととは別ですよ。
百万の富を抱(だ)いても、一生涯に少ししか費(つか)わなかったら、これは問題なく貧乏人です。
現在、君はもう、昨日までとは違った新しい現実の上に立っている。前穂の氷の壁よりも、もっと冷酷な地盤に立っている。よく覚悟しておくことだ。
人間の幸せというものは、しみじみと、心の底から、ああ、いま、自分は生きているということを感じることだな。そうすれば、自分のまわりのものが、草でも、木でも、風でも、陽の光でも、みんな違ったものに見えて来る。
人間というものは、自分が恩恵を受けたたくさんのことを、それを思い出そうとしないと思い出さないものである。
人間と人間が顔を合わせたら、お互いにすぐ相手の立場に立って考えようじゃないか。孔子はそう説いています。これ以上、生きてゆくうえでの基本的な道徳はありませんね。
どうせおだましになるのなら、なぜもっとむごく、とことんまでおだましになりませんでしたの。女は男のうそによっても、けっこう神にまでなれるものでございますのに。
どんな幸福な人間でも、一度は死にたいほど悲しくてつらいことがある。
万事、焦ることはない、ゆっくりやればいつか事は成る
自分に克(か)って机に向かうんだな。入学試験ばかりではない。人間一生そうでなければいけない。
自分が歩んできた過去を振り返ってみると、何とたくさんのすばらしい、一生に一度の出会いがあることか。
これから何年、何十年生きても、おそらく人生というものなど解(わか)りっこないに違いない。ただ、そうした解らない人生というものの終局点に立ったとき、人生を肯定する立場に立っていたい。
人間何をしてもいいが、あまり自分を不幸にしてはいけない。
人間はだれでも、自分の一生を成功だとは考えないまでも、失敗だとは思いたくない。
「養之如春」(これを養う春の如し)──何事であれ、もの事を為すには、春の陽光が植物を育てるように為すべきだという意味である。“これを養う”の“これ”には何を当てはめてもいい。子供を育てることも、愛情を育てることも、仕事を完成することも、病気を癒すことも、みな確かに、あせらず、時間をかけてゆっくりと、春の光が植物を育てる、その育て方に学ぶべきなのである。
友情というものは、お互いに相手に対する尊敬と親愛の念の絶えざる持続がなければならぬものである。
人生は所詮(しょせん)克己(こっき)の一語に尽きる。
いいことをすれば救われるというのは、ある意味ではごまかしです。実際の人生に、そういう救われ方はない。