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遠藤周作

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遠藤周作は、日本を代表する小説家である。1923年3月27日に日本の大阪で誕生し、カトリックとしての洗礼を受ける。1941年に上智大学に入学し、1942年に中退した。その後、慶應義塾大学へ進学し、1950年にフランスのリヨンに渡り、ケルト神話などを研究した。「第三の新人」と呼ばれる作家として、1965年に「海と毒薬」を発表し、キリスト教作家としての地位を確立した。その後もユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイで知られるようになる。1996年9月29日、ヘモジンで死去した。

人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。何ごとも善と悪とが背中あわせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬ。分別してはならぬ。
現実は神の不在か、神の沈黙か、神の怒りを暗示するだけで、そのどこに「愛」がかくれているのか、我々を途方に暮れさせるだけだ。
人間の行為はそれ自身で完結するということはない。
愛の第1原則は「捨てぬこと」です。人生が愉快で楽しいなら、人生には愛はいりません。人生が辛く、みにくいからこそ、人生を捨てずにこれを生きようとするのが人生への愛です。だから自殺は愛の欠如だと言えます。
この世の辛さに生きることは神がわれらを浄めたまう試練と心得ております。
ひとりよがりの善意が相手を傷つけ、親切が他人の重荷になることを気づかぬような人間ほど始末の悪いものはない。
人間生活にはムダなものがかなりあるが、そのムダなもののために情緒が生まれ、うるおいができ、人の心がなごむようなものがある。
生きていることは辛か。重か。
生活と人生とは違う。
その動機が何であれ、彼らは神に関わったのだ。神に一度関わった者は神から逃れることはできぬ。
人は人の前を横切らずには生きていけない。
どんな人間も疑うまい。信じよう。だまされても信じよう。
二十三のとき、エゴイストではない奴はばかだよ。
人間らしく生きるために七分は真面目人間、三分は不真面目人間で生活するのが「生きる智恵」と言うべきであろう。
人間には他人を不幸にせぬために嘘をつかねばならぬ時がある。
みなの善意の裏にはそれぞれのエゴイズムがある。
最大の罪は神に対する絶望だ。
人間とは妙なもので他人はともかく自己だけはどんな危険からも免れると心の何処(どこ)かで考えているみたいです。
神とは背中をそっと押してくれるような働きである。
誰が他人を勝ちほこって裁けるというのだろう。裁くこと、追及すること、そして自分たちだけが正しいと思うことが民主主義ならば、それはほかの主義とどう違うというのだ。
汝等(なんじら)むなしき神々を恃(たの)むなかれ。
魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸(ぼろ)のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。
人間はみんなが美しくて強い存在だとは限らないよ。生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる。
今の時代、人間が人間を裁きすぎる。
負けちゃ駄目だよ。うつくしいものは必ず消えないんだから。
神は存在というより、働きです。
人間なんて妙なもんですね。どんなことにも馴れるんじゃないでしょうか。
クレオパトラの鼻が、もう一寸、高かったら、世界の歴史は変わっていたのかもしれぬ。あの瞬間、夫が、オナラを一発ならさなかったならば……静枝は生涯貞淑な妻として家にとじこもっていたかもしれぬ。
人間には、どんなに努力しても成ることと成らぬことがある。
小説家とは、絶えず自分を揺さぶりつつ書いていくものである。
一人の人間にはその運命と人生とを決するような時が生涯、一度は必ずあるものであり、それを乗り切った瞬間、彼の未来は全面的に変わるものなのだ。
それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、善意だの正しい方向だのと主張している。
人と走る時ははじめより一番手となってはならぬ。と申して四番、五番を走るのは愚かだ。一番手にくっつき二番手に遅れず三番手をはしり、おのれの力を蓄えて最後に追いぬく。
今の若い世代にもっとも欠けているのは「屈辱感に耐える」訓練である。この訓練が行われないで、そのまま社会から大人あつかいにされると、おのれのすること、なすことはすべて正しいと思うようになる。
人生はどんな外形をとっても本質は同じものなのである。
魅力のあるもの、キレイな花に心を惹かれるのは、だれでもできる。だけど、色あせたものを捨てないのは努力がいる。色のあせるとき、ほんとうの愛情が生まれる。
山に登る路(みち)はひとつだけではございますまい。東西からの路もあれば、南北からの路もございます。いずれから登ろうと、頂に達します。神に達する路も同じでございましょう。
この世には誰かのために犠牲になる存在と、その犠牲の上に倖せをきずく存在がある。
苦しいのは誰からも愛されぬことに耐えることよ。
俺はいつも考えるのだが、人間には善魔というものがある。
人間にとって一番辛いものは貧しさや病気でなく、それら貧しさや病気が生む孤独と絶望のほうだ。
人間にはどうしても動かせない運命というものがある。その運命の支配する限り、どんなに努力しても仕方がない。
寂しいけど、自分が二流である場合、それはいつか、自認せねばならんものだよ。
どうせ人生の本質はつらく、人間は孤独なぐらい百も承知している。だからそれだけ余計に明るく楽しく振舞おうという決心を、私はこの十年間に持ち続け、更にその気持ちを強くしている。
女は唸(うな)っている猛犬と同じで、眼をジッとみられると弱い、急に不安げな表情をするものだ。
イエスはこの十字架で無力であることによって、愛のシンボルに、愛そのものになっていったのだ。
昨日まで蔭で糞みそに相手を酷評していても、今日、利害関係がありそうになればまるで何事もなかったように旧友のごとく肩を叩きあうのが日常茶飯の出来事である。
この人を助けてください。もし助けてくださったなら、わたくしは洗礼をうけます。
このウソと偽りにみちた世界にはもう生きたいとは思わない。
私は、死というのは、この世界から新しい生命に入る通過儀礼だというふうに思っています。通過儀礼ですから、それは試練であり、そして恐怖があり、苦しみが伴うのだと思います。
日本人は表面は流行に弱いが、心の底ではバランスをとることを好み、極端に走るのを嫌う。
人生は抱きしめれば抱き締めるほど、やがて燦然たる光を放つようになります。
人間の一生には一度はまたとない好機が来る。
人間はな、用をたしている時、意外と心を集中してものをみるんやで。
なんだかんだと言っても人間の心は金で結局、動かされる。
女には一生のうち少なくとも自分の愛に骰子(さいころ)を投げねばならぬ時がある。
布教は修道院や日の当たる場所でぬくぬくと神の愛を語るのとは違いましょう。
苦しみのなければ人と人とは、心の底から結びつかぬものですたい。
意識でははっきり自覚しなくても、死期の迫った患者のなかには、本能的にこの地上から別離せねばならぬことを感じとる者が少なくない。
死ぬ時できればこう言いたい。「いろいろやりました。 やっぱり楽しかったなぁ。 ではサヨウナラ。」
裁きは裁きのためにあるのではなく、人のためにある。
誠実に真剣に現代を生きるためには、反動的な世界と血を流しても闘わなくちゃならないんだよ。
自分の考えだけが何時(いつ)も正しいと信じている者、自分の思想や行動が決して間違っていないと信じている者、そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者ーーそれを善魔という。
誰かを愛するということは、その人を「信じよう」とする意志にほかならない。もしくは 信じる賭けをなすことにほかならない。
これで……いい。ぼくの人生は……これでいい。
神さまは 子どもが 遊ぶのがすき 子どもが 子どもらしいのがすき
二つの石は同じ坂をすべり落ちながら、底知れぬ谷の底に落下していく。 人を愛するということは、そんなことのような気がする。
情熱を持続するには危険が必要なんだ。ちょうど恋愛の情熱がさめるのは安定した時であるのと同じように、人生の情熱が色あせるのも危険が失せた時だよ。
人間が別の人間の横を通りすぎる時、それはただ通りすぎるだけではなく必ずある痕跡を残していくことだけはわかってきた。もし俺がその横を通りすぎなかったらその人たちは別の人生を送れたかもしれぬ。
ぼくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです。
俺のような年齢の者にはなにが何と言うても、若い者の精神を鼓舞するほど愉快なことはない。
革命は危険という油を俺達の情熱にそそいでくれる。
基督(キリスト)教の信仰というものは多くの場合、長い人生の集積をさすのであって、普通、考えられているように改宗、もしくは受洗した日から一挙に心の平安や神への確信が得られるものではあるまい。
善意や意志が、強者にたいしては効果があっても弱者にたいしては時として苛酷であり、稔(みの)りをもたらすよりは無意味な傷つけ方をしたと言いたいのです。
砂浜は歩きづらいが、振り返ると波うちぎわに自分の足跡が……自分だけの足跡が……一つ一つ残っている。アスファルトの道は歩きやすいが、そこに足跡など残りはしない。
人間には一人になるとなぜか動物だけを友だちにしたい心が起きるんでしょうねえ。
子供が笑っている時、娘が微笑んでいる時、母親が幸福な悦びに顔をかがやかせている時、彼の心はゴムまりのようにはずむのだ。
人生とは何と複雑で、何と矛盾にみちているのだろう。
一度、神とまじわった者は、神から逃げることはできぬ。
信仰は競馬によく似ていると思うことがあります。ビギナーはよく穴を当てます。ところが馬のことを勉強し始めたら、当たらなくなります。
病気はたしかに生活上の挫折であり失敗である。しかしそれは必ずしも人生上の挫折とは言えないのだ。
結局、神父さん、人間の業とか罪とかはあなたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、分類したりできるものではないのではありませんか。
讃美歌とか、神父のもっともらしい話とかは基督教にたいする信仰を強めるどころか、それを冷却するために役だった。
男っていうもんは、酬(むく)われるために、何かをやるんじゃない。やらにゃア、いかんから、やるんで……
迷信を一度信じると泥沼に足を入れたようになる。
自分が弱虫であり、その弱さは芯の芯まで自分に付きまとっているのだ、という事実を認めることから、他人を見、社会を見、文学を読み、人生を考えることができる。
父や母にはすべての基準がきまっている。なすべきこと、してはならぬこと、善いこと、悪いことの基準がきまっている。 だが若い自分や弟にはそんな基準はあらかじめ与えられているものではなくて、自分たちで見つけていかねばならぬ。
私の眼には、ユダ自身がまるで基督(キリスト)の劇的な生涯と十字架上の死という栄光のために引きまわされた憐れな傀儡(くぐつ)、操り人形のような気がするのでした。
死の向こうに、もうひとつの世界があるんです。
英雄的な華々しい死に方をするのは容易しい。しかし誤解のなかで人々から嘲(あざけ)られ、唾はきかけられながら死ぬのは最も辛い行為である。
自分に忠実なほど倖(しあわ)せなことはないじゃないの。
神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。
教えを御存知なくば、好くも好かぬもございませぬ。
人間はやはり信じられぬ。人間は自己の肉体苦痛の前にはやはり、すべての人類への友情、信義をも裏切る弱い、もろい存在である。
罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。
神について語るのはそれで結構だが、どこか西洋人の思想の借りものだからね、胡散(うさん)臭いよ。
天皇制は決して無くならん。革命も絶対に起きん。日本人のなかにある農民的な体質や気質も残るやろ。外国からの借りものの政治理念は歯切れもええし若い連中の思想には便利やけど、メッキはメッキや。
私が茶道で一番心を惹かれたのは「沈黙の声」を聴くということだ。
結局、ぼくたちは親のためではなく、自分の人生のために生きてるんだろ。
俺の信ずる神の国は目にみえるものではなかでな。神の国は……すべての人の魂のなかに作られる。