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岡本太郎

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岡本太郎は元々、神奈川県高津村出身の芸術家でした。1930年から1940年にかけてフランスに滞在し、抽象美術運動やシュルレアリスム運動にも関わった。父親は漫画家で有名な岡本一平、母親は百藝春子(かの子)で歌人や小説家など、多彩な才能を持つ女性です。芸術作品のほか、本を執筆したり、展覧会を開いたりして、現代日本人にも知られています。

一言で言う。人生、即、芸術。
自分の存在をもっとも自由に表現しえたもの、自由感のもっとも豊かなもの。それが、すぐれた作品。
自分を賭けることで力が出てくるんで、能力の限界を考えていたら何もできやしないよ。
人に認められたいなんて思わないで、己を貫くんだね。でなきゃ、自分を賭けてやっていくことを見つけることは出来ないんだ。
ぶつかってきたこの運命に、正面から戦いを挑んでゆくほかはない。でなければ、滅亡するだけだ。
みんなが悪だと決めているものが、実は悪でなくて、本当に生きがいのある情熱かもしれない。
他人を型にはめ込んでしまわず、自分の生きるふくらみとして、いつも積極的に見かえせば、思わぬ新鮮な人間像を発見するよ。誰だってみんな面白い。
生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。
でたらめをやってごらん。口先では簡単にでたらめなら、と言うけれども、いざでたらめをやろうとすると、それができない。
きみはあなた自身を創造していると思いなさい。
流行なんて、文字どおり流れていく。
自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手の中に自分自身を発見する。それが運命的な出会いというものだ。
芸術の技法というものはない。芸術はメッセージだ。伝えたいものがあるならば、言うことは自ずから決まっている。一番的確に、言いたいことを表す形はなにか?それは自分にしかわからない。
芸術家は分かれ道に立った時、危険な方を選ぶべきだ。こっちへ行ったら危ないぞという方を選んだら、それは芸術家だ。
ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。
趣味的になっては駄目だ。もっとも効果的に、本質的に社会に対立する、その方法を定めることが芸術の技術だよ。
どんな女でも、底の底ではあったかく優しい。許して包み込んでくれる。性悪女でも意地悪ばあさんでも、女はあったかい。
セクシュアルな結びつきでなくても感動する女性が存在するんだよ。
人生の目的は悟ることではありません。生きるんです。人間は動物ですから。
今までの自分なんか、蹴飛ばしてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
昨日すでにやったこと、人のやったことと同じようなことをやるのでは、まったく意味がない。
やっちゃいけないことをやる、それが面白い。
食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。
限界は、考えない。人間は、はじめから限界のうちに立たされているんだから。
現在、権威にされているものでも、かつて、古い権威を否定したときの情熱を持ち続け、さらに飛躍して自分自身と時代を乗り越えようと進んでいる場合には、その人は打ち倒される古い権威側ではなく、若さと新鮮さの陣営にある。
うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、ということに対して、絶対にうぬぼれたり、また恥じたりすることはない。あるものが、ありのままに出るということ、まして、それを自分の力で積極的に押し出して表現しているならば、それはけっして恥ずかしいことではないはずだ。
今、この瞬間、まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。そうふっきれたとき、ひとは意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚える筈だ。
自分の本当のことをぶちまけて、ぶつかりあって、いい意味での闘いをする相手。それが親友だ。
面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。ただ前に向かって身心をぶつけて挑む。瞬間、瞬間があるだけ。
フェアな態度でぶつかり合えば、お互いに親近感を感じるものだよ。
芸術家の情熱は何も作品に結晶するばかりではない。作品の以前と以後。そしてまた創られた自己の作品を乗り越えるという意思。それをひっくるめてはじめて創造だ。
文明は、多くのものを失わせた。失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを創る。そう決意すればなんでもない。
結果がまずくいこうがいくまいがかまわない。むしろ、まずくいった方が面白いんだと考えて、自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
われわれの世界、環境は無限の迷路だ。だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。
自分では恋だと思い込んでいるけれど、実は、いわゆる恋愛ではなく、友情なんじゃないか。そういうことはよくあるね。
みんな、人に期待したり、なぜ英雄は出ないのかなどと、そんなことばっかり言っている。自分こそがとは誰も言わない。
本当にすばらしい女性というのは、目ではなく、心に触れてくるものなんだ。
ほんとうに一度でも、人生で心のふれあった人間がいたら、そのために死んでもいい。
人間は精神が拡がるときと、閉じこもるときが必ずある。強烈に閉じこもりがちな人ほど、逆に拡がるときがくる。
自分だけが独占している知識、それで威張ろうなんて卑しい。
勝とうが負けようがどっちでもいい。平気なんだ。勝って結構、負けて結構。ただ、完全燃焼、全力をつくす。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分をつらぬいていけば、ほんとうの意味でみんなに喜ばれる人間になれる。
自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。
芸術に賭けようとするくらいの人間なら、自己愛と自己嫌悪は猛烈に渦巻いている筈だ。それを殺すことはない。もっともっと激しくのたうち、からみ合わせる。その相克は人間の究極のドラマだ。しかし、乗り越える方法はある。乗り越えなければならない。それが芸術なんだ。
芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける。
苦労した作品より、ひとりでにどんどん進んでしまったもののほうが、いつでもいい。
人間というのは、生まれつきのかたちで、生きているのがいちばん美しいんだ。
女には、生まれつき筋をつらぬく面がある。男よりずっとしっかりしているよ。
人と争うのじゃなくて、ニッコリ笑っていればいい。そうするといつか相手にキミ自身の純粋さがわかってくる。そして、相手が自分も彼みたいな純粋さを持てればいいなと思いはじめるものなんだ。
芸術は自然科学と異なり、連続的な発展をたどるよりも、断絶によって創造的に飛躍する。
愛情だけが二人の中を結んでいる。無条件の関係だから、男も女も相手に対して、いい加減になれない。その緊張感が女を、また異性としての男を磨くのだ。
人間というものは、とかく自分の持っていないものに制約されて、自分のあるがままのものをおろそかにし、卑下することによって不自由になっている。自由になれないからといって、自己嫌悪をおこし、積極的になることをやめるような、弱気なこだわりを捨て去らなければ駄目だ。
壁にとじこめられて、ニッチもサッチもいかない、悩めば悩むほど行き詰まってしまう、絶望の季節もある。そういうとき、どうするか。焦らない。自分と向き合うチャンスだ、と思ってじっくり腰をすえて、自分は本当に何がしたいのか、見極めることだね。
もしハンサムじゃないという悩みを持っているなら、そして純粋さでは他の誰にも負けないという自信があるなら、女性に対しても、いわゆる美女にとらわれず、自分と同じように純粋な女性を恋の相手に選べばいい。
永遠というのは時間を越えた「瞬間」なんだ。だから、愛に燃える瞬間が永遠で、その後に続こうが続くまいが、どのような形であろうと、消えてしまってもそれは別なことだよ。
すぐれた作品に身も魂もぶつける。本当に感動したら、その瞬間から、あなたの見る世界は色、形を変える。
いつも自分自身を脱皮し固定しない。そういうひとは、つねに青春をたもっている。
人間はその数だけ、それぞれ、その姿のまま誇らしくなければならない。
弱気になって逃げようとしたら、絶対に状況に負けてしまう。逆に、挑むのだ。
孤独感を持っているのはキミだけじゃない。人間全部が孤独感を持っている。
自分自身を責めることで慰め、ごまかしている人が、意外に多いんだよ。そういうのは甘えだ。惨めな根性だと思うね。
思いきって、のびのびと踏み出してみる。そして人間的な自由とは何であるか、その歓びをみずから発見するんだ。
自分の姿をありのまま直視する、それは強さだ。
ルールは一応守らなければならない。しかし、ただ大勢の人たちが守っているから、自分も従っていくという意志のなさではなくて、ルールは守ると同時に、内なる自由、抵抗をつねに持っていく。そのような大らかで激しい心を、人間的な誇りとして持たなければいけない。
芸術に憧れたり、芸術が大変なものだと思っているやつに芸術家がいたタメシはない。
自信なんてことを目標にしなくていい。また、すべきじゃない。自信なんてことを考えるから、人の目が気になるんだ。
芸術家は岐路に立った時、困難な方を選ぶ。
創り出すことと年齢なんて関係ないよ。
素晴らしい女友達をたくさん持つ。その豊かな男らしさ、おおらかさから本当の恋愛が生まれると思うよ。
無経験の素人でも、感覚と言いたいことがあれば、いつでも芸術家になれる。何を言いたいのか、それが自分ではっきり掴めていないから、表現に迷う。肝心なのは、モチーフだ。
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。
自分の好きな音を勝手に出す、出したい音を出したらいい。
激しく自分が惚れていると感じるときは、相手が裏切ったように見えるときだな。
年とともに若くなっていくのが自分でわかるね。
出世したいと思って、上役におもねったり取り入ろうとするから、イヤらしい人間になってしまうんだ。それよりも、自分は出世なんかしなくっていいと思ってしまえば、逆に魅力的な人間になってくる。
自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で甘えがある。ほんとうに生きていくためには、自分自身と闘わなければだめだ。自分らしくある必要はない。むしろ、「人間らしく」生きる道を考えてほしい。
恋愛だって芸術だって、おなじだ。一体なんだ。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがある。
大体、いちばん素晴らしい絵を描くのは四、五才くらいの子どもだよ。
生きるとは、死と直面して戦うことである。そこに真の生きがいがある。
「いまはまだ駄目だけれど、いずれ・・・」と絶対に言わないこと。“いずれ”なんていう人に限って、現在の自分に責任をもっていないからだ。
男は女性的な女性の世界観から、自分の中に欠落しているものを、見出すことが出来る。これが喜びであり、救いとなる。
人生は遊びだ。
人生、即、絶対的な闘いなのだ。それは絶え間のない、永遠の冒険だと言ってもいい。
ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。
人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ。
他人のものはもちろん、たとえ自分の仕事でも、なぞってはならない。
絵にしろ、彫刻にしろ、文章でもテレビでも、それを売って食うためにやるなんてことは空しいと思うんだ。
本当の生命の核から、ゆるぎ出してくるモチーフがあるはずなんだよ。じっと身をひそめ、向き合わなければ、それはつかめない。
全生命が瞬間的に開き切ること。それが爆発だ。
口説く必要なんかないんだ。目と目があえばいい。あとは行動あるのみさ。
芸術は爆発だ!
本当に生きるということは、環境に迎合したり、また安易に受け入れられ、好かれたりすることであってはならない。私はいわゆる成功はむしろ絶望に等しいと思っている。
面白いねえ、実に。オレの人生は。だって、道がないんだ。だからぼくは、「本職は人間だ」と答えてやるんだ。
いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん。
すぐれた芸術には、飛躍がある。創造だから。かならず見るひとに一種の緊張感を要求する。
ただ食えて、生命をつないでいるだけじゃ、辛いよ。たとえ生活の不安がなくても、毎日が実に空虚だし、実際、むなしい。何を自分は本当にやりたいのか。そうなってからじゃ、もう遅いんだなあ。
「こういうもの」を描きたい、描くべきだという情熱が起こるまでは、ぼくは絵描きではない。
殴り合いからお互いが理解できる場合だってある。闘っていくことを忘れてはいけない。
「愛」の前で自分の損得を考えること自体、ナンセンスだ。そんな男は女を愛する資格はない。
尊敬する人を持つことは甘えだ。それよりも、感動を大切にしろ。