大宅壮一のプロフィール画像

大宅壮一

@01gr37jy5ydvbz1w96fvzaq6jv

大宅壮一は日本のジャーナリスト、ノンフィクション作宅、評論家である。父・八雄、母・トクの三男として、大阪府三島郡富田村(現:高槻市)の醤油屋から生まれた。彼は14歳より放蕩を始め、弁護士試験に失敗した後、選挙、警察界で産を傾けた。生涯の過程で酒をやめられなかったため、1970年11月22日に死去した。

“善人”とはほかに大して褒(ほ)めるところのない人物、といって悪ければ頭脳的反応がきわめて単純で、心の中を簡単に見すかすことのできる人物のことである。
美しく死ぬことはやさしい。美しく老いることはむずかしい。
難しい文章を書くのは概して頭の悪い人に多い。頭のよい人は物事をそしゃくして、わかりやすく書くものである。
英雄は時代がつくるように見えて、実は時代の影法師にすぎなかった。
結局、ぎりぎりの線で忠誠心の対象になるものは、自分自身しかない。
人物評論というものは、他人をあげつらうことではない。他人にかこつけて自らを語ることである。
男の顔はその人の人生の履歴書である。
世間には、つねに何者かを崇拝し、胸に抱きしめていないとおさまらない人間がウヨウヨしている。釣られたがっている魚のようなもので、それに糸をたれてやるのが教祖である。
今の日本では、新聞を読むということは、実は漁師が(天気を予測するために)浜に出て空を見るのと同じである。そこで雨ガエルの声も馬鹿にならぬということになるのだ。私が文筆業者として果たしてみたいと思うのは、この雨ガエルの役割である。
五十人味方がいて五十人が敵。それでいいじゃないか、全部を味方に引き入れることなんてできっこない。
大体、恥部のない奴は人間じゃないよ。恥部のある方が魅力があるし可愛らしい。だから、ついスカートをまくって、恥部にさわりたくなるのが人情だ。
現代は英雄のインフレ時代である。今ほど英雄になりやすい時代、英雄の粗製濫造される時代はない。
わかりやすい表現を恥じる必要はない。
同心円を描くな。
愛がご馳走なら、信頼は米の飯だ。