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塩野七生

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塩野七生は1937年7月7日に東京都滝野川区(現・東京都北区)に生まれ日比谷高等学校と学習院大学文学部哲学科を卒業した日本の歴史作家・小説家・評論家である。1968年にデビュー作の物語集『ルネサンスの女たち』を出版し、『ローマ人の物語』(1992~2006年)や『ローマから日本が見える』(2005年)などの作品で知られている。イタリアを訪れ活動するなかで、彼女自身の文学的スタイルを確立した。

大胆とは傷を恐れないこと。これは若い人にしか許されない特権です。今の日本の中高年は、大胆になれと言われているのに一向になれなくてあたふたしています。これから生きていこうとしているあなた方(=若者)は、開放的で大胆であることを身につけてください。
禁断の甘き匂いは、禁断を犯さないかぎりかぐことはできない。
忙しい中にも女のために時間をつくるのも、男の才能の一つではないか。
価値は多様ではない。一つ(=一つしかないもの)だから価値がある。
人生やはりいくぶんかの楽観主義は必要で、そうでないと、自分自身が耐えていけないだけでなく、周囲の人まで巻きぞえにしかねないのだ。
歴史とは、現代人の感覚で読んでしまうと、話がいっこうに進まないだけでなく、少しも面白くなくなってしまうものである。
書けば原稿料を稼げる作家に意外とおしゃべりが多いのも、話すことで頭の中にあった考えがはっきりした形になってくるということを、他の職業の人よりは深く理解しているからなのです。
奔放な生き方を貫ける人は、もともとそれをできる環境に恵まれていたか、それとも、人間のしがらみに無神経でいられる「大胆」な人にかぎられる。
人類は三千年このかたあらゆる統治形態を模索してきたが、支配階級の存在しない統治形態だけは考え出すことはできなかった。
ときに何もかも忘れて夢を見ることは、子供よりも大人に必要だ。
(この歴史作品から)教訓を得る人は、それでよい。しかし、歴史から学ぶことになど無関心で、ただそれを愉しむために読む人も、私にとって大切な読者であることに変わりはない。いや、そのような人を満足させえてはじめて、真にためになる教訓を与えることも可能なのだと信じているくらいだ。
私たち女には、男に私淑(ししゅく)したり兄事(けいじ)したりしているほうが、人生はよほど多様になり深みを増し、そして愉しくなるのではないかと思う。男女平等は、せめて、法律上のことで留めてはどうだろう。いつも「平等」で肩ひじ張っていては、肉体的にまず疲れてしまうであろうし。
われわれが古来からの伝統と思いこんでいる事柄とて、それが成された当初はすべてが新しかったのだ。
われわれは誰でも、なにがしかの不都合をかかえながら生きている。そしてしばしば、これらの不都合を人生の大事のように思いたがる。それも、自分自身の人生の大事と考えるならまだしも、他の人にとっても他人事でない、つまり人間すべてに共通する大問題として捕えたがるのだ。
亭主の温かい眼差しだけで、妻はキッチン・ドリンカーに落ちなくてすみ、担任教師の一言だけで、登校拒否も治る。
最初の柵を越えれば、次の、そしてそのまた次の柵を越えるのは、ずっと簡単にいく。
私が若者であった頃、若者に理解の手をさしのべたがるオトナを、気味悪いと思って眺めていたのを思いだす。
非秀才から秀才たちを見たときに感ずる心配がある。それは彼らや彼女達の人間洞察力の貧困さである。
女に対して常に成功を収める男の武器は、美貌でもなく教育程度でもなく、ましてや社会的地位や経済力ではまったくなく、ただただ言葉のつかいようにある。
将来伸びていきそうだと思う若い人には二つの特徴があります。一つは好奇心が強いこと。もう一つは大胆であること。
男たちよ!女には、頭のできのいかんにかかわらず、あなたがたと同じ種類の「見識」を、二十四時間中の二十四時間求めてはいけないのです。八時間ぐらいが限度だと思っていたほうが無難なのです。
好奇心が強いことは、自分の殻を破っていくことです。他を拒絶するのでなく、自分を開放していくことです。そういう開放的な人って、これから伸びていく可能性があります。
人間はどんなに資質の劣る人であっても、理解されていると感じさえすれば正道に戻れ、能力も発揮できるようになるものである。
優しくあれるようになるのは、人生には不可能なこともある、とわかった年からである。自分でも他者でも、限界があることを知り、それでもなお全力をつくすのが人間とわかれば、人は自然に優しくなる。
男は美貌ではない、というのならばわからないでもないが、男は顔かたちではない、とは言えないのではないか。
真の貴族は市民のモラルなど問題にしない。市民的モラルを問題にしはじめた時、貴族階級の没落が始まる。
良いこともできなければ、かといって悪事に徹底することもできない人とは、何もできない人間ということになる。
女たちは、男の考えなどにはおかまいなく、ただただ痩せようと努力する。ところが、この頃では男たちも、女の想いなどには関係なく、痩せることに熱心になったようである。
人間というものは、いかに心の中で思っていても、それを口にするかしないかで、以後の感情の展開がちがってくるものである。
人は、不幸な人には同情はしても、愛し、協力を惜しまないのは、幸運に恵まれた人に対してである。
私も、個人としては、恋人には迷惑をかけたくないと常に思っている。しかし、恋人とは、ひどく迷惑をかけてくる女は困るにしてもまったくかけないという女ではものたりないと思う存在であることも知っている。
ジーパンの似合う男が必ずしもタキシードも似合うとは限らないが、タキシードの似合う男は、絶対にジーパンも似合う。
ローマ人の偉大さの第一は、いろんな異分子を入れたことだ。
君主に対する暗殺は、政体を何一つ変える働きを持たない。
ローマ人は、頭脳でギリシャ人に劣り、技術でエトルリア人に劣り、経済力でカルタゴ人に劣るといわれた。それなのに彼らに勝てたのは、持てる力を戦略的に活用する能力にたけていたからだ。
人間は、タダで得た権利だと大切に思わなくなる。
おしゃれしてくれてありがとう、とは、ニクイ台詞だ。深い関係になった男女の、それもこの関係が、まだはじまったばかりの時期にしか使えない。
追い込まれて、やむなく踏み切らざるを得なかった改革は、かならず失敗している。
人間とは、事実だから信ずるのではなく、事実であって欲しいと思う気持さえあれば信じてしまうものなのである。
三十代とは、男にとって動揺がサマになる最後の年代なのではあるまいか。
それにしても亭主という種族は、なぜああも妻の買い物に同行するのを嫌うのか!
真の政治感覚をもつ政党など一つとして存在しない状況下では、有権者の判断力は具体的に判断可能なことにしか発揮されない。
権力者は、たとえ憎まれようとも軽蔑されることだけは絶対に避けねばならない。最高権力者が自ら墓穴を掘るのは、軽蔑を買う言動に走ったときなのだ。
(子どもは)成績は悪くても、(物事に)疑いを持ったほうがよい。
優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。
若者が、優しくあれるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、高慢で不遜であるほうが似つかわしい。
天才とは、その人だけに見える新事実を見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気がつかなかった旧事実に、気づく人のことである。
人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にも五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。
誰もが危機を感じ取れなくなったときに、本物の危機が始まる。それも暴君ではなく、理想を掲げた指導者の時代に。