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キルケゴール

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セーレン・オービュ・キェルケゴールは、デンマークの哲学者、思想家であり、実存主義の創始者、ないしはその先駆けと評価されている。彼は当時とても影響力が強かったフリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派に関して痛烈な批判を行った。

信仰はまさに思惟(しい)の終わるところから始まる。
だまされる者はだまされない者よりも賢く、だます者はだまさない者よりもよい。
人間の未来は、その自由な選択に依存する故に予測不可能である。
しばらく二人で黙っているといい。その沈黙に耐えられる関係かどうか。
祈りは神を変えず、祈る者を変える。
人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは自分自身に関わる一つの関係である。
我々が、自分の得ようとするものに達するには、まずその反対のものを経なければならないということは、我々人間の不完全さの一つである。──我々は善悪を通して、初めて至福を目にするのである。
愛とは、愛の意図や動機を絶えることなく吟味することだ。
苦難の道は永くもあれば、また暗くもある。次第に明るくなるような道は別の道である。
全てか、しからずば無。
何よりも、歩きたいという欲望を捨ててはいけない。日々、私は歩くことで健康を保ち、あらゆる病から歩み去る。歩くことで最高の思考も経験した。また歩くことで逃れられないほどやっかいな考え事を、私は知らない。
時間は時間から生まれた子供たちを飲み込む。悩みも時間の子であって、悩みが永遠を僭称(せんしょう)するのは、まやかしにすぎない。
審美的な選択は、全く間接的であり、その限りにおいて選択というべきものにはならないか、あるいは、多様な可能性の中に埋没するか、そのどちらかである。
本来、お世辞というものは、女の身にぴったりと当てはまる衣裳である。
自分の肉体の欠陥や奇形をむき出しにして同情を呼ぼうとする乞食と同じように、自分のくだけた心の状態をさらけ出して人目を惹こうとする作家がある。
人間は思考し、観想する存在であると共に、選択する存在である。
めったに使われない思考の自由の代償として、人々は言論の自由を要求する。
なるほどぼくは人生の主人ではなく、人生の織物のなかに織り込まれるべき一本の糸にすぎない。それでよろしい。ぼくは織ることはできないにしても、糸を切ることはできるのだ。
追憶は後方へ向かって反復されるが、本当の反復は前方に向かって反復される。
私の生活を変えるのは、私の行為である。
女というものは、目の前を通った他の女が自分に注目したかどうかを直感的に悟る術を心得ている。というのも、女がその身を飾るのは、男に媚びるためではなく他の女たちに誇るためだからである。
人間はなんといっても不合理だ。人間は自分の持っている自由は決して行使しないで、自分の持っていない自由を要求する彼らは、思索の自由を持っているが、表現の自由を要求する。
結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。
思い出しか欲しないのは、淫(いん)しているのである。
人間は、各個が唯一者であって、形而上学的にも科学的にも、その用語によっては、説明され得ない。
信念は理屈をも超越する。
あらゆる人生は反復である。
人を誘惑することのできないような者は、人を救うこともできない。
人間が根源的であればあるほど、不安はそれだけ深い。
私は二つの顔を持つヤヌスだ。一面の顔で笑い、一面の顔で泣いている。
思弁が終わる、まさにそのときに信仰が始まる。
人間の生の価値は、その人が何をしたがではなく、どうしたかにかかっているべきである。
人間とは一つの総合――無限と有限、時間的なものと永遠的なもの、自由と必然――である。
私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデー(=理念・理想)を見い出すことが必要なのだ。
偉大な人と対面した経験があるということに最高の価値をおく人が、なんとたくさんいることだろう。彼らはその時の印象を決して忘れない。彼らの眼前に漂い続けるその理想像が、彼らの全存在を高貴にするのである。
人生は解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である。
さあ、サイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ。この道は私を戦いに導くだろう。だが私はたじろぎはしない。私は私の手で見出した「この道」を駆け抜けて進むのだ。
人間は思想を隠すためでなく、思想を持ってないことを隠すために語ることを覚えた。
選択の瞬間、自我はおのれ自身を選ぶ──あるいはむしろ、おのれ自身に委ねられるがままにするのである。その時、個性は、いつまでもおのれを高貴にしてくれる儀式を受けるのである。
比較的厳密な意味で二者択一が問題となる場合には、どんな時であろうと、そこには必ず倫理的なものも関係している。
女というのは(泣きたいときは)泣かせてやらなければならない。泣きぬくと、泣くべきものがなくなって、あとはすぐに忘れてしまうものなのだ。
孤独とは生命の要求である。
行動と情熱がなくなると、その世界は、妬みに支配される。
我々が恋愛について話し始めるや否や、ただちに第一の問題が出て来る。すなわち、人は何を愛するかという問題である。これに対して人がなし得る唯一の答えは、人は愛されるにふさわしきものを愛す、ということである。
愛はすべてを信じ、しかも欺(あざむ)かれない。愛はすべてを望み、しかも決して滅びない。愛は自己の利益を求めない。
精神の闘いでは、独身者のほうが世帯者よりもずっと危険をおかし得る。
女性は実体で、男性は反省である。
さあ賽は投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!
この世のこっけいなものの中で一番こっけいに思えるのは、物事を急ぐ人、どんなに急いで食べても、どんなに急いで仕事をしても急ぎ足りない人である。──それで何を成し遂げるのだろう、永遠に慌てふためくこの人たちは?彼らは、火事になった我が家からろうばいして火箸を救い出す女のようなものではないのか?
罪とは、存在する代わりに創作し、ただ空虚の中でのみ善と真とを問題にし、実在的にはそれであろうと努力しないことである。
女の身を滅ぼすかの流行という病にとりつかれて、無我夢中になっている、みじめにもあどけない女たちの姿を、一幅の絵にしてごらんなさい。そしてまた、女が無意識に示す女性特有の羞恥を含んだ姿を一幅の絵にしてごらんなさい。おそらく、一目で女というものをすっかり理解なさることができましょう。
その女を手に入れる事ができない期間だけ、男はその女に熱狂させられる。
人間は、自由であり、自由であるが故(ゆえ)に不安である。
哲学は踏み出す一歩一歩ごとに皮を一枚ずつ脱ぎ捨てるのだが、愚かな弟子どもは、その皮の中へもぐり込んでゆく。
人生は振り返らなければ理解できないが、前を向かなければ進んで行かない。
たまたま私の身に起こることが私を偉大にするのではなく、私の行うことが、私を偉大にする。
子供は眠っているときが一番美しい。
どんな恋愛関係にあっても、関係はできたが実現の見込みはないという場合には、思いやりが最大の侮辱である。
ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。
人は何を愛すかという問題に対して人がなし得る唯一の答えは、人は愛されるにふさわしいものを愛す、ということである。
人は他の何ものを知るよりも先に、自己自身を知ることを学ばなければならない。
亀の肉がさまざまな肉の味わいを持っているのと同じく、結婚もまたいろいろと変わった味を持っている。そして、亀が歩みののろい動物であるのと同じく、結婚もまた足取りののろいものである。
汝が汝自身のごとく隣人を愛するとき、汝はまたその隣人を愛するごとく、汝自身をも愛さねばならない。
自らの挫折の中に信仰を持つ者は、自らの勝利を見出す。
真理とはイデー(=理念・理想)のために生きることでなくて何であろう。
私にとって真理であるような真理を発見することが必要なのだ。しかもその真理は、私がそのために生き、そのために死ねるような真理である。
青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている。
女性の本質は献身であるが、その外形は抵抗である。
蛇に咬(か)まれた者がどんな苦しみを受けねばならないかは、自ら蛇に咬まれたことのある者にしかわからない。
彼の愛は心理的ではなく、感性的であって、感性的な愛は、その概念にしたがって貞節ではなく、絶対的に不貞であり、一人の女を愛さずすべての女を愛する。すなわちすべての女を誘惑するのである。
裏切り者の中で最も危険な裏切り者は何かといえば、全ての人間が己自身の内部に隠しているところのものである。
幸福は過去になったとき初めて存在するものなのだ。
奇妙な奴だ、人間とは!自分が持っている自由は決して使わずに、いつも、自分の持っていない自由を望む。思想の自由を持ち、言論の自由を求めるのもそれだ。
決意は、人間の力・勇気・知恵ではない。それは宗教的な出発である。
忘れるということができない者は、分別のある者にならない。
臆病の虫に取り付かれると、その人はよきことを行わなくなる
もしもあなたが私にレッテルをはるなら、それは、私の存在を否定することになる
絶望であることを知らない絶望。言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているということについての絶望的な無知。
結婚というのは、人々が愛に、ある宗教的表現を与えることと、愛を宗教的義務に高めることのほか、何を意味するつもりなのか。
君が君自身を重んじることができなければ、誰か君を重んじることのできる人を見つけることも、ほとんどないであろう。
真の信仰の騎士は常に絶対孤立であり、本物でない信仰の騎士は宗派的である。
女であることはなんと不幸なことか!しかも女でありながら、自分が女の一人であることを本当に知らないのは、いっそう手ひどく不幸なことだ。
女性は自然の規定に完全に従属しており、したがって美的な意味において自由である。男性が女性に求婚するに際して、自由を与えるという言葉を使うのは、このためである。
退屈は悪の根源であって、遠ざけねばならないものである。無為は悪ではない。それどころか、無為のセンスを持たぬということは、誰の場合でも、いまだ人間性にまで高められていないことの証左である、とさえ言うことができる。
世間では、愛は人間と人間との間の関係であるというが、キリスト教の教えによれば、愛は人間と神との間の関係であるという。というのは、神が愛の媒介であるからである。
絶望とは死に至る病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。
私は二つの顔を持つ双面神だ。一面の顔で笑い、他面の顔で泣く。
絶対的な二者択一は一つしかない。すなわち善悪の選択であって、これはまた絶対的に倫理的でもある。
私に欠けているものは、私は何をなすべきかということについて、私自身に決心がつかないでいることなのだ。つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが問題なのだ。
罪は消極的なものではなく、積極的なものである。