人間が本当に道徳的であるということは、自分が助力することのできるあらゆる生命を助け、どんな生命をも傷つけまいと熱望する、その熱望に従う場合だけである。
本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、ついにそれを見出した者である。
私は真理と精神との力を信じるがゆえに、人間の未来を信じる。
世界の快癒はいろいろな処置をほどこすことによってではなく、ものの考え方を改めることによってもたらされるのだと世界自身が気づくときに、ようやく世界は立ちなおることができよう。
我々が自分の生活あるいは人類の歴史において体験するものが、我々の生きようとする意志を圧迫し、我々から生気と思慮を奪ってしまうならば、我々は支えを失い、崩れる石に足をとられて深みに落ちるかもしれない。しかし、我々を下で待ち受けているものが死であることを知るがゆえに、我々は再び小道をよじ登のである。
人間は自分に起こった問題を環境のせいにする癖を止めねばならぬ。そして自分の意志を──(自分の)信念と道徳に基づく自分自身の取るべき道を──再び訓練することを学ぶべきだ。
惨めさから抜け出す慰めは2つある。音楽と猫だ。
時々、私たち自身の光が消えた時、他の人の火花によって、元気になることがあります。私たちは自分の心に火を灯してくれた人々に深く感謝したいものです。
力のある者は騒がない。力のある者ほどじっとしていて働きかける。真の道徳は、言葉の終わったところから始まる。
自分が何か大切なことを成し遂げたいと考えているなら、他人が障害を取り除いてくれることを期待してはいけない。
未来を見る目を失い、現実に先んずる術(すべ)を忘れた人間の行き着く先は、自然の破壊だ。
あらゆる価値ある働きは、信仰にもとづいた行為である。
人道主義は、人間を一つの目的のために決して犠牲にしないことより成り立つ。
身をもって示すことがリーダーシップである。
私たちはこの世に存在している不幸の重荷を、みんなで一緒に担わなければならない。
罪を正当だと思うのは、実際に罪の証拠を見せられ、自白せずにいられなくなった時だけだ。
成功の最大の秘訣は、他人や状況に振り回されない人間になることだ。
平和条約についての規準など、いくらよく考えられ、いくら手際よく整えられたものであろうと、何の役にも立たぬ。生への畏敬の思いを実効あるものにする思考のみが、永遠の平和をもたらすことができるのである。
我々は何かを得ることによって生活しているが、人生は与えることによって豊かになる。
一般的にいって、一つの世代は、その世代中に生み出された世界観によって生きるよりも、むしろ前世代の世界観によって生きるものである。
心の灯が消えかかったとき、誰かがあかあかとした灯を差し出してくれることがある。灯を分け与えてくれる人に感謝しなくてはならない。
すべての人は、自分の中に医者を持っている。
運命は予測できない。でもひとつだけ分かっていることがある。本当に幸せになれる人とは、自ら進んで世の中の役に立つすべを求め、見出した人である。
思考から生まれ、思考に問いかけるもののみが、全人類のための精神的な力となりうる。
目に見える水の流れは、地下を流れる水の量に比べると本当に少ないのと同じように、目に見える理想主義は、世の中の人々が心の中に閉じこめ、ほとんど出さないでいる理想主義に比べると本当に小さなものだ。閉ざされているものを放ち、地下水を地表に導く。人々はそれができる人が現れることを待ち焦がれている。
人生において多くの美しいものを手に入れた者は、その代わりにやはり多くのものを提供しなければならない。
太陽は氷を溶かし、親切な行いは、誤解や不信や敵意を蒸発させる。
精神を通じて平和への一つの思いが諸民族の間に生まれ育つ、その度合いに応じてのみ、平和の維持のために作られた諸機関は、それに求められ望まれていることを果たすことができるでありましょう。
(※人生において)我々は常に悲観論の深淵に沿って、ごろごろした石を踏んで歩いて行く。
我々の人生は、我々の生きようとする意志と世界との対決であり、この対決において我々は、生きようとする意志を低下させないように、たえず抵抗しなければならない。
人間への信頼は希望を支える。
自分の苦悩をまぬがれた者は、他人の苦悩を軽くしてやる責務を感じなければならない。
人がやれるのは、やれることだけだ。それをやるからこそ夜に眠ることができるし、明日また続けることもできる。
少年の頃の理想主義の中に、人間にとっての真理が潜んでいる。そして少年の頃の理想主義は、何ものにも換えることが出来ない人間の財産である。
楽観主義者は、どこでも青信号を見る人のこと。悲観主義者とは、赤信号しか見えない人のこと。本当に賢い人は色盲です。
平和が来るか来ないかということは、個々人の心の持ちようの中に、また諸国民の心の持ちようの中に作り上げられるものにかかっている。
真実には特定の時などない。真実はどんな時代にも真実である。
生への畏敬こそ、倫理の根本原理をわたしに啓示するものである。それは、善は生命を維持し促進し高めることのうちにあり、それを破壊し損傷し妨げることは悪であるということだ。
人生の悲劇は、生きていながら内部では死んでいること。
人類が自らの意図によって造るもの以外に、人類の運命というものはない。それゆえに、人類が没落の道を最後までたどらねばならないとは信じない。
私は、生きようとする生命に取り囲まれた、生きようとする生命である。
事実になりうる可能性が考慮されなかったというただそれだけの理由で、長い間もしくは全く、実効のないままに置き去りにされてきた真理は少なくないのです。
人を動かすには模範を示すことが大切だ。というより、それしかない。
人間は、助けることの出来るすべての生命を助けたいという内的要求に従い、何らかの生命のあるものならば加害することを怖れる、というときにのみ真に倫理的である。