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アンドレ・モーロア

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アンドレ・モーロワは、フランスの小説家、伝記作者、評論家である。1885年7月26日、ノルマンディー地方エルブーフ Elbeuf に生まれた。第一次世界大戦には英語通訳官として出征し、その後ルーアンのコルネイユ高等学校(Lycée Corneille, Lycée Pierre-Corneille)を卒業。処女作『ブランブル大佐の沈黙 Les silences du colonel Bramble』からアランの哲学の通俗化を基本としつつ、広い教養、穏健な良識、柔軟な文体で小説、歴史、評論、伝記を書き、フランスの文壇で知られるようになった。

恋する男は、自分の愛する女性と一緒に見た国や光景に関して、並はずれた追憶を残している。
恋愛というものは、振幅が大きくて、情熱の波にもてあそばれます。友情は静かで安定した流れをたどります。
経験が唯一教えてくれることは、経験は何も教えてくれないということだ。
最も深い革命は精神的なものである。精神的革命は人間を変革し、今度はその人間が世界を変革する。
洒落っ気があるだけでは十分ではない。持ちすぎないようにするのが肝心だ。
人間は恋愛においては、小さな忠実よりも大きな不謹慎の方が許しやすいものだ。
家庭は集団的エゴイズムである。単に愛情のみならず、防衛であり、外部に対する同盟であるようなエゴイズムに堕落する。
真に結ばれた夫婦にとって、若さの喪失ももはや不幸ではない。ともに年老いることの楽しさが、年老いる辛さを忘れさせてくれる。
初恋は、男の一生を左右する。
忘却なくして幸福はあり得ない。
学者とは、その観察と経験から、現象相互の一定の関係について、いろいろな仮定を引き出す人のことである。
絵画が視覚を、音楽が聴覚を魅するように、料理は味覚を虜にする。
夫婦というものは、夫婦を構成する二人のうち、より低いほうの水準に合わせて暮らすものである。
幸福な結婚とは、婚約してから死ぬまで全く退屈しない長い会話のようなものである。
恋する人は、自分も恋に生きているからこそ恋愛劇を好む。
どんな瞬間においても、夫婦というものは「勝負に勝った、休息しよう」と言って怠惰な安堵に身を任すことはできない。
何をおいても決して恐れてはいけない。あなたを退却させようとしている敵はまさにその瞬間、あなたを恐れている。
友情の価値である重厚な信頼は、恋情の場合では、自分の愛する者を失うまいとする絶え間ない危機感によって置換される。
死はイメージを欠いているから想像できない。死は思想を欠いているから考えられない。されば我々は、永遠に生きる者であるかのように生きなければならない。
伝記は断じて小説化になってはならないが、つねに小説的であるべきだ。
あらゆる変化をこらした酒池肉林からも、生まれてくる感情上の生物は常に同一である。すなわち屈辱と下卑(げび)と陰鬱な感情である。
最初の教育の目的はとりわけ「学ぶすべを学ぶこと」であろう。生涯の残りは、応用しながらも学ぶことに過ごされるべきであろう。
最も驚くべき記憶力は恋する女の記憶力である。
恋する男からみれば、プレゼントは自分の力を確実にする一つの手段である。
家庭とは、人がありのままの自分を、示すことができる場所である
老いることは、忙しい者には身に付ける暇のない悪い習慣だ。
恋愛の誕生はあらゆる誕生と同じく「自然」の作品である。愛の技術が介入するのはその後のことである。
望みどおりの幸福を得られなかった過去を否定して、自分のために、それを変えていこうという希望こそ、蘇生した人間のもつ魅力なのである。
意志も、人間が行動する瞬間からしか、なすすべを知らない。それは航行の場合でよく分かる通りである。動かないでいる船は操縦できない。一つの動きによって操縦可能な力が生じて、初めて舵(かじ)もきくようになる。
女性の友情は、恋愛が僅かの役目を果たしていない社会では容易である。
夫婦間の会話は、外科手術のように慎重に取りかからなければなりません。ある種の夫婦は正直なあまり、健康な愛情にまで手術を施し、そのために死んでしまうようなことになるのです。
人生は短い。たとえ、それを長いと思って過ごしている人たちにとっても。
女は自分の色恋沙汰が世間の口に上らないことを望む。しかし自分が愛されているということをみんなに知られたいと望む。
老年は男女間の友情に最も適した年代である。というのは、彼らはその年代になると、男や女であることをやめてしまうからである。
レストランで食事を一緒にしている夫婦たちの様子を見たまえ。彼らが押し黙っている時間の長さが、夫婦生活の長さに比例しがちである。
仕事は退屈と悪事と貧乏とを遠ざける。
すべての偉大な恋愛のうちには母性愛がある。真の女らしい女たちが男の力を愛するのは、男の弱さを知っているからである。
団体の仕事に従事する者や、ボスとなる人に仕える者は、虚栄心を持ってはいけない。その人自身の意志が強すぎて、自分の計画がボスの計画とぶつかると、ボスの命令を自分の好む方法へ曲解しようとするからである。
一つのまなざし、一度の握手、いくぶん脈のありそうな返事などによってたちまち元気付くのが恋をしている男女なのだ。
物わかりのよい夫は、決して腹を立てることがない。暴風雨の真っただ中にいる船乗りと同じように、こういう夫は帆綱(ほづな)をゆるめるのである。様子を見ている。いずれそのうちに凪(なぎ)が来るだろうと思っている。
世渡りのためには、誰も武装しているし、またそれが必要なのだが、固く結ばれた夫婦の間では鎖で身を固めることを要しない。
真に幸福な結婚においては、恋愛と友情が混和していなければならない。
たびかさなる失敗や不幸にも関わらず、人生に対する信頼を最後まで持ち続ける楽天家は、よい母親の手で育てられた人です。
本当に男らしい男とは、傍らに女がいる場合にだけ存在する。
生きる技術とは、一つの攻撃目標を定めること、そしてそこに力を集中することである。
病気は精神的幸福の一種である。病気は私たちの欲望や不安に、はっきりした限界を設けてくれるからだ。
きわめて立派な愛は、欲望の激しいひしめきにあるのではなく、日常生活の完全な、永続的な調和によって初めて認められるのである。
欲情は二つの皮膚の偶然の接触から生まれる。