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ヘレン・ケラー

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ヘレン・アダムズ・ケラーは、1880年6月27日にアラバマ州タスカンビアに生まれた。視力と聴力を失う19か月時からホームサインを使って主に意思疎通を行っていたが、7歳の時に教師のアン・サリヴァンと出会い、言葉や読み書きを教えられた。1924年から1968年までアメリカ盲人財団(AFP)に勤め、アメリカ合衆国各地で講演を行い、世界中の35か国へ旅して視覚障害者を支持した人物である。

もしこの世に、乗り越えるべき障害がないとしたら、私たちはこれほど豊かで実り多い人生を送ることはないだろう。
もし、世界に喜びしかなかったら、勇敢になるとか、忍耐強くなるとか、学ぶことは決してなかったでしょう。
現在を嘆き悲しむ者は、やがて不運を招くことになる。
危険を回避することが、危険にさらすことより安全であるという保証は、長い目で見た時にはあり得ません。
どんなものにも驚きがある。暗闇や静寂にさえも。そして、わたしは自分がどんな状況にいようとも、その中で満足できるということを学ぶ。
誰もがみんなのために働く、それが本当の愛国心だ。
この時初めて私は「水」とは、今、自分の手の上を流れている不思議な冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、私の魂を解放することになったのです。
山の頂上に立つ喜びは、もしそこへ至るまでに越えるべき暗い谷間が一つもなければ、半減されるでしょう。
神を否認することは、つまるところ、いずれも自由と真の人間存在を否認することであるのがわかる。……結局、いっさいを包括する神の慈悲という教えのみが私たちの知識を正当なものにし、私たちの文化に品位を与えることができるのである。
決してうつむいてはいけない。頭はいつも上げていなさい。目でしっかりとまっすぐ世界を見るのです。
私は素晴らしく尊い仕事をしたいと心から思っている。でも私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも素晴らしくて尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのだ。
大きな目標があるのに、小さなことにこだわるのは愚かです。
いつも太陽の光に顔を向けていなさい。そうすれば影を見なくてすむ。いつも真理に目を向けていなさい。そうすればあなたの心から不安や心配は消える。
言葉を高尚にするのは思想である。
障害は不便だが不幸ではない。
恐れ──それを抜け出す最善の方法は、それを味わい尽くすことです。
私はひとりの人間に過ぎませんが、それでもひとりの人間です。私は何でもできるわけではありませんが、それでもできることはあります。私に出来ることは、喜んでするつもりです。
友人に対して素朴に子供のように信頼を捧げることは、ありとあらゆるところからやってくる問題を解決してくれます。
人生は大冒険か、さもなければ、単なる無意味なものです。
悲しみと苦痛は、やがて「人のために尽くす心」という美しい花を咲かせる土壌だ。
変化に向かって敢然と顔を上げ、目の前の運命に対して自由な精神を発揮するとき、その力は敗北を知らない。
わがまま(自己本位)と不平によって、心はゆがめられたり曇ったりするように、愛はその喜びによって、視覚というものを明確なものにすると同時に、また鋭敏なものにするのです。
闇は、不滅の魂の躍進をはばむものではない。
人生は大胆な冒険か、無か、そのどちらかだ。
最も耐えがたい重荷は、目が見えないということではなく、目の見える人の見えない人に対する態度である。
悲観論者が、星についての新発見をしたり、海図にない陸地を目指して航海したり、精神世界に新しい扉を開いたことは、いまだかつてない。
軽々しくよく考えもしないで信じる人は、大した信念を持っていません。
教育の最高の成果は、寛容さである。
もし現状を打開することに成功できなければ、どんな状況の打開もできない。
言葉というものがあるのを初めて悟った日の晩、ベッドの中で私は嬉しくて嬉しくて、このとき初めて早く明日になればいいと思いました。
何ものにも揺るがない信念を持っている人は、血と汗を流した結果それを勝ち得たのです。――刺(とげ)だらけのやぶを通り抜けて広々とした世界へ到達し、疑いの世界から真実の世界へ達したのです。
人間を変えるものは環境ではなく、人間自身の内なる力なのです。
個人に対して外側から押しつけられる倫理的規範は、内的な成長を阻害するし、また、最も気高い衝動の内発的な表現を妨げることによって、余計な負担をもたらすものである。
私たちが最善を尽くす時、私たちの人生、もしくは他の人の人生に、思いがけない奇跡が起こる。
幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし、私たちは、閉ざされた扉をいつまでも見ているために、せっかく開かれた扉が目に入らないことが多いのです。
真の詩は、たとえそれがギリシア語で書かれていようと英語で書かれていようと、感じる心以外に何らの解釈者も必要としない。
人生とは、大いなる冒険か、さもなければ無である。
人生とは、果敢なる冒険か、つまらぬ物のどちらかだ。
困難に立ち向かう一番確実な方法は、自分は不滅であると信ずること、そして一睡もしないで見守ってくれる友人があること、その友人は信じて委(ゆだ)ねさえすれば私たちをじっと見守ってくれ、導いてくれることを信じることです。
幸せとは、視野の広い深遠な知識を持つことです。その知識とは、嘘と真実、低俗なものと高尚なものを見分ける力です。
自分の限界を考えたことはありませんし、限界の存在は悲しむべきものではありません。
行動にかかるたびに、人間の脳は成長します。そうなった時、本当の信念が生まれます。
世界は苦難に満ちているが、それを乗り越えた事例にも満ちている。
人々の思いやりがあれば、小さな善意を大きな貢献に変えることができます。
心の優しさのあまり、困っている人を見ると、われ知らずにっこりと親切に話しかけ、手助けせずにはおられない人は、親切をするたびにうれしくてたまらず、そのうれしさが生き甲斐になっているのです。
希望!どんな不幸におちいっても、我々は希望の太陽を心から捨ててはならない。
人生が冒険でないなら、どうして生きるに値しようか。
人生は勇気のいる冒険であるか、何もないかだ。
結局、真の知識を得ようと望むものは、誰でも「艱難(かんなん)の山」をひとりで登らなければならず、頂上への王道がない以上、私は曲がりくねりながらも登らねばならぬことに気づいたのです。
「やろう」と思う強い意志は、これまで行ってきた行動の回数と、その時の決意の強さによって決まります。
今日を立派に生きることが、明日の希望を見出すことであり、明日の希望があってこそ、我々は明るく生きることができる。
一番大事なことは、どんな環境が必要かということではなく、どんな考えで毎日生活しているか、どんな理想を追い求めているか、ということなのです。一言でいえば、その人の人柄の問題なのです。次のアラビアの格言は素晴らしい心理を語っています。「汝の今いる所が汝の世界である」。
一番大事なことは、どんな環境が必要かということではなく、どんな考えで毎日生活しているか、どんな理想を追い求めているか、ということなのです。
希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就しない。
疑いの心から出発しなければ、深く根ざした信念は得られません。
自分の欠点を直視し認めることです。ただし欠点に振り回されてはいけません。忍耐力、優しさ、人を見抜く目を欠点から学びましょう。
聴覚障害者と視覚障害者にとって、精神的な世界を思い描くことはなんら難しいことではない。自然界のほとんど全てのものが私の感覚にとっては定かでなく、遠いものなのであって、大多数の人の精神にとっては、精神的な事柄がちょうどそんなふうに思われるのであろう。
克服できそうにもなかった障害を克服し、さらにいっそう大きな達成目標を立てる──こんな素晴らしい楽しみがまたとあるでしょうか。
自分の弱点をしっかり見つめて、その姿を十分に知っておきましょう。でも弱点に支配されては駄目です。弱点から忍耐力と優しい心と物事を見通す力を教わりましょう。
人生は勇敢に立ち向かうべき冒険であるか、さもなくば意味のないものかのどちらかです。
真の認識に迫ろうとする人は、誰でも困難の山を一人で登らなければならない。
祖先のうちで奴隷でなかった者もいなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなかった。
この世で一番哀れな人は、目は見えていても未来への夢が見えていない人だ。
内面の感覚、あるいはそう呼びたければ《神秘的な感覚》といったものが、見えないものの姿を私に見せてくれる。私の神秘の世界は好ましいものである。そこには私が一度も《見た》ことのない木や雲や星や渦巻く川がある。私は、目の見える道連れたちにとっては何一つない時に、美しい花や鳥や笑い声を立てる子供たちを意識することがよくあるのだ。
あの白百合のように、じめじめした環境にいても、清らかに、すこやかに生き抜くことができない限り、どんな環境にいても、か弱い人間にしかならない。
頂上へは楽な道などない。それなら私は自分なりにジグザグに登ればいい。
第六感は誰にでもあります。それは心の感覚で、見る、聴く、感じることが同時にできるのです。
元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです。
人生とは危ない冒険か、何ものでもないもの。そのどちらかでしかない。
ベストを尽くしてみると、あなたの人生にも他人の人生にも、思いがけない奇跡が起こるかもしれません。
私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。
目に見えるものは移ろいやすいけれど、目に見えないものは永遠に変わりません。
個性は安らぎや静けさの中で生まれるものではありません。試練や苦しみを経験することでのみ、魂が鍛えられ、洞察力が研ぎ澄まされ、野心が鼓舞され、成功が手に入るのです。
自分が今いる世界を救うことができない限り、どんな世界をも救うことができないでしょう。
「安全」は迷信です──自然界に安全は存在しません。長い目で見ると、危険を避け続けるのは、危険にさらされるのと同じくらい危険です。
本当の教育は知性と美しさと善良さを組み合わせたものです。そしてこのうち一番大切なものは善良さです。
つらくても、とにかくやり通す。そうすれば、次にはもっと易しく思えるはずです。
未来を開く鍵は楽観主義
世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。
あなたは困難な仕事を自分に課しましたが、あきらめずにがんばれば、うまく行くのです。そして、成功への障害を克服することが喜びとなるでしょう。
もし十分な時間をかけ、努力を怠らなければ、望んでいることはすべて実現できる。
個人個人は意識の敷居の下に、緑なす大地や、さらさらと音を立てる流水への、隠れた思い出を持っているのであって、盲目になっても聾唖(ろうあ)になっても、過去の世代から伝えられたこの贈り物が奪われることはない。
危機には正面からぶつからないで、避けたほうが安全かと言うと、長い目で見れば決してそんなことはない。
愛とは、手で触れることはできなくても、香りで庭を美しくしてくれる花のようなものです。
匂いとは、時間と空間を超えて私たちを運ぶ、力のある魔法使いだ。
知っているということは至福である。なぜなら知識──該博(がいはく)で深い知識──を持つことは、真の目的と偽りの目的、高貴なこと卑俗なことを区別する能力を持つのと同じだからである。
闇と沈黙の中でさえ、すべてのものは、驚嘆すべきものを持っています。私はどんな状況にあっても、その中に充足があることを学んでいます。
もし幸福な生活を送りたいと思う人々がほんの一瞬でも胸に手を当てて考えれば、心の底からしみじみと感じられる喜びは、足下に生える雑草や朝日にきらめく花の露と同様、無数にあることがわかるでしょう。
何か素晴らしいことを達成するための努力というものは、決して無駄にならないことを覚えていなさい。
物事を成し遂げさせるのは希望と自信です。
人知を超えた平和は望みません。平和をもたらす人知を望みます。
光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうがいい。
人生は興奮に満ちている仕事だ。もっとも興奮するのは、他人のために生きるときだ。
私たちの手の中には、数知れない小さなものが毎日落ちてきます。それは小さい好機です。神様は私たちが利用するのも悪用するのも自由なように、これを残して行かれるのです。
心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう。強い心で生きるために──言い換えれば、あせらずに、苦情を言わずに生きるために──できる限りの努力をすれば、いつかは楽しい満ち足りた生活を送れる日がやってきます。
どちらの方向に足を向けても困難が私たちを待ち受けています。人生ある限り困難は必ずついてまわります。こうしたものはその人の人格から作り出されるのです。
空高く飛びたいという思いに駆られているときに、おとなしく這(は)い回っている人などいない。
この世は、英雄たちの剛力だけでなく、個々の実直な労働者のささやかな力の総体によって動いているのだ。
神の真理は、私にとって、目や耳にとっての光や色や音楽と同じものになった。それは、健康で正常な身体に対する私の渇望を純化し、自分は心の中に完全な人間存在の姿をいだいているではないか、という生き生きした意識に変えてくれたのである。
あきらめずにいれば、あなたが望むどんなことだってできるものです。