木村無相
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「生きてる価値」を感じるような生き方の型が、一定して客観的にあるのではなく、「生きてる価値」とか「生きる意義」とか、「生きる価値」とかいったものは、「自分のため」という現実の生活の中で、自分が主観的に見出してゆくほかないものである。
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親鸞の場合は「ハラを立てる、欲をおこす、ウソを言う」あらゆる「煩悩」を「悪」とも言うのですよ。言うというより、「悪」と感じるのですよ。感じずにおれんところに「悪」があり、その自分が「悪人」というわけですよ。
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「生きている価値」といったことは、客観的に「これこれのことをしたら生きてる価値がある」というふうに決められるものであろうか。ムー(無相)には、どうも、「生きてる価値」といったものは、至って、主観的なものではないかと、思われるんだけれどどうであろうか?
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仮面かぶっているので、皆さんよくしてくれるが、ほんとのことわかったら皆逃げ出すでしょう。来なくなるでしょう。しかたありません。それは、正に「自業自得」ですから。だから、ひとに自分と通じた性格がチラチラなりと見えると、ぞっとします。自分の本性見せられるようで。