「生きてる価値」を感じるような生き方の型が、一定して客観的にあるのではなく、「生きてる価値」とか「生きる意義」とか、「生きる価値」とかいったものは、「自分のため」という現実の生活の中で、自分が主観的に見出してゆくほかないものである。
人間、生きてるだけで生きてる「価値」ありであるまいか。ギリギリのところでいえば。
親鸞の場合は「ハラを立てる、欲をおこす、ウソを言う」あらゆる「煩悩」を「悪」とも言うのですよ。言うというより、「悪」と感じるのですよ。感じずにおれんところに「悪」があり、その自分が「悪人」というわけですよ。
「人はなんで生きるのやろ」、これについては、ムー(無相)にはわからんのですよ。本当は、生きてるから生きてるので、別に意味は考えられない、わからないというほかないんですよ。
みんな死ぬる人とおもえばなつかしき
普通の人間は、自分のため、といった自己中心的な生き方しか、普通には出来ないのではないだろうか。たとえ、そうした生き方は、「生きる価値がない」という生き方にしても。
一期一会のみんなかなしくなつかしく
浄土真宗というようなものは、あらゆる、勇ましい宗教のおちこぼれのための「宗教」といっていいのです。
「生きている価値」といったことは、客観的に「これこれのことをしたら生きてる価値がある」というふうに決められるものであろうか。ムー(無相)には、どうも、「生きてる価値」といったものは、至って、主観的なものではないかと、思われるんだけれどどうであろうか?
「生きてる価値」があってもなくても、こうでなければ生きられないのが、私の現実です。
世の中のことは、なるようにしかならぬが、また、なるようになってゆくものであります。
そのままと仰(おお)せらるるに、そのままになろうと、かかり、ひとり苦しむ。
常に凡夫は(己れを)「及第」の身としたがってならず、それを常に「落第」の身と知らしめてやまざる常否定の智慧(ちえ)こそ、信心の智慧といわれるものではないでしょうか。
ご縁 ご縁 みなご縁困ったことも みなご縁南無阿弥陀仏に 遇うご縁
今 今 今たった今死んでも生き甲斐あったか
花も草も虫も、ライオンも、皆、意味なしに、生きてるんでないでしょうか。そして、死ぬとき、枯れるときが来たら、枯れ、死に―。
仮面かぶっているので、皆さんよくしてくれるが、ほんとのことわかったら皆逃げ出すでしょう。来なくなるでしょう。しかたありません。それは、正に「自業自得」ですから。だから、ひとに自分と通じた性格がチラチラなりと見えると、ぞっとします。自分の本性見せられるようで。
人間が価値的に生きるには、問題とか、苦悩が大切と思うことです。苦悩するところに「人間」がある。もちろん「楽」もあるが、「楽」は、喜んで受けて問題にしませんからねえ。