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洪応明

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洪自誠は、中国明代の著作家である。科挙に合格し官界に入りそこを中途で退き、仏教と道教の研究に勤しんだとされる。有名な著作に『菜根譚』と『仙仏奇蹤』があり、詳細な経歴は不明である。

昔、我と言ったものが今では彼、また今日の我が後日の誰になるかも分からない。
暗い所におる者は、明るい所がよく見えるが、明るい所におる者は、暗い所を見ることができない。
徳は才の主、才は徳の奴。
人生のしあわせとか、わざわいとかは、みな自分自身の心の中から起こってくるもので、決して、境遇に左右されるものではない。
恩はよろしく淡(たん)よりして濃なるべし。濃を先にして淡を後にする者は、人その恵(めぐみ)を忘る。
多情の女は男狂いの果てに尼になり、のぼせやすい男は思いつめて仏道に入る。かくして神聖なるべき寺院が、いつも淫(みだ)らな女やよこしまな男どもの集まる巣窟となる。
常に一段高いところから出発しようと心がけないと、いかに努力をしても、それはホコリの中でホコリを払い、泥の中で足を洗うのと同じで、とうてい凡俗から抜け出すことはできない。
人と共にして失敗した責任を分かち合うのはよいが、成功した功績は共有しようとしてはならない。共有しようとすると、仲たがいの心が生じてくる。
人のあやまちを許すのはよいが、自分のあやまちを許してはならない。
自分の考えがいくら正しいと思っても、他人から見ると間違っていることが少なくない。他人の行いの善し悪しも、よそ目にははっきりと見えやすい。
人は、親しむべき友と親しむべきではない友とを見分けなければならない。
うれしまぎれに、軽はずみな承諾を与えてはならない。酒の酔いにまかせて、腹を立て怒ってはならない。
金に汚い人間になるな。人と交わるときは遠慮深くして、人になるべく出費させてはいけない。
物をたくさん持っていれば、失うとなるとたくさん失う心配がある。だから、財産家であるよりは、むしろ貧乏であって失う心配のないない暮らしのほうがましだと悟るべきだ。
清いものは常に汚れたものの中から生まれ出で、光り輝くものは常に暗闇の中から生まれ出る。
先を争うの径路は窄(せま)し。退き後(おく)るること一歩なれば、自ら一歩を寛平(かんぺい)にす。
功過は少しも混(こん)ずべからず、混ずればすなわち人、惰堕(だだ)の心を懐(いだ)く。
色欲は火のごとく熾(さか)んなるも、而(しか)も一念、病時に及べば、便(すなわ)ち興(きょう)は寒灰に似たり。
徳は才の主(しゅ)、才は徳の奴(ど)なり。才ありて徳なきは、家に主なくして、奴、事を用うるが如(ごと)し。幾何(いかん)ぞ、魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。
徳は事業の基(もとい)なり。
得意の時、すなわち失意の悲しみを生ず。
天が幸福を授けてくれないなら、自分で(自分を)磨いて幸福を得よう。天が肉体を苦しめるなら、精神を楽にして苦しみを減らそう。天が進む道を阻(はば)むなら、努力してわが道を貫き通そう。こうすれば、天といえども、どうすることもできないだろう。
人は誰でも、一生のうちに、自分一人の思案では決めかねるような大事件にぶつかるものだ。だから、思慮深くて物事の良し悪しをわきまえた友人を普段から作っておき、常に親しく付き合って、大事件に出会った時にはその人に相談するとよい。
悪党を取り除くには、一すじの逃げ道を残しておく必要がある。逃げ場をなくすのは、ねずみの穴をふさぐようなもので、大事なものまですべて咬み破られるにちがいない。
身を持するは軽くすべからず。意を用うるは重くすべからず。■(全文)士君子、身を持するは軽くすべからず。軽くすれば、物よくわれて撓(たわ)めて、悠間(ゆうかん)鎮定の趣なし。意を用うるは重くすべからず。重くすれば、われ、物のために泥(しず)みて、瀟洒(しょうしゃ)活発の機なし。
破るるは得意の絶頂にあり。
世に処するは一歩を譲るを高しと為(な)す。
暑さを除かなくとも、暑さを悩む心を除けば、涼しい場所にいるのと同じである。貧しさを追い払わなくとも、貧しさを悩む心を追い払えば、安楽な住居にいるのと同じである。
労働は三つの得。朝夕の食事は軽くして、労働するのがよい。おごって美酒美食を好み、怠けて遊び暮らしてはいけない。おごらず、怠けずという生活は、第一に人格が養われ、第二に健康が保たれ、第三に財産を増やすという三つの得がある。
福は求むべからず。
完名美節(かんめいびせつ)は、よろしく独り任ずべからず。些を分かちて人に与え、もって害を遠ざけ身を全うすべし。
天が我が肉体を苦しめるならば、我は精神を安楽にして肉体の苦しみを補う(=和らげる)。天が我が境遇を行き詰まらせるならば、我は我が道を高尚にして貫き通す。
恩仇は大いに明らかにすべからず、明らかにすればすなわち人、携貮(けいじ)の志を起(おこ)さん。
人の小過を責めず、人の陰私(いんし)を発(あば)かず、人の旧悪を念(おも)わず。三者をもって徳を養うべし。またもって害に遠(とおざ)かるべし。
一字識(し)らずして、しかも詩意あるものは詩家の真髄を得(う)。
身分不相応な幸運や正当な理由のない授かりものなどというものは、天が人を釣り上げる甘い餌であるか、さもなければ人の世の落とし穴である。
おのれの拙(せつ)によりて人の能を忌(い)むことなかれ
親しむべきでない友とは、貪(むさぼ)りの深い人、言葉の巧みな人、諂(へつら)う人、浪費する人である。
心和(わ)し気平(たい)らかなる者は、百福自ずから集まる。
天地は永遠であるが、人生は二度と戻らない。人の寿命はせいぜい百年、あっという間に過ぎ去ってしまう。幸いこの世に生まれたからには楽しく生きたいと願うばかりでなく、ムダに過ごすことへの恐れを持たなければならない。
老来の疾病(しっぺい)は、すべて是(こ)れ壮時に招きしものなり。
すべて世上に出づるの因は、善く用いる者には生機にして、善く用いざる者には殺機なり。
善をなして人の知らんことを求むるなかれ。
危害を受けても与えるな。
大巧は巧術無し
人間は潔癖にすぎぬよう、よごれもけがれも、丸のみがよい。交際は几帳面すぎぬよう、やくざやのろまも一緒に受け入れた方がよい。
禍いは避けられない。他人を害する心なくして禍いに遠ざかる法とするほかない。
(人は)自分のこととなるととかく我欲が出るから、才知のある人でも分別が鈍って、善悪の見分けがつきにくくなる。
徳は量に随(したが)って進み、量は識によって長ず。故にその徳を厚くせんと欲すれば、その量を弘(ひろ)くせざるべからず。その量を弘くせんと欲すれば、その識を大にせざるべからず。
人に施してはその報(むくい)を責むることなかれ。
幸運は求めて得られるものではない。ただ楽しい気持ちを養い、幸運を招き寄せるほかはない。災難は避けられるものではない。ただ殺気立つ心を取り去って、災難から遠ざかる工夫をするほかはない。
つまらぬ奴には非難されても、ちやほやされないほうがよい。立派な人には叱られても、大目にみられぬほうがよろしい。
心虚なればすなわち性(しょう)現る。
つねに反省を怠らない者は、なしたる事がみな良薬となるが、つねに他の過失を責める者は、心を動かすことがそのまま自分を傷つける凶器になる。
人は何事につけ、思い切って即座にやめれば、それで即座にけりがつくものである。
人情は移ろいやすく、世渡りの道は厳しい。だからこそ、険しい難所でも一歩退いて道を譲り、楽に通れる所でも、三分(さんぶ)は人に譲る心がけが必要だ。
ままならぬでも平気でいること、うまくいっても平気でいること。無事に馴れるべからず、頭から恐れるべからず。
人情や世相は、たちまちにしていろいろに移り変わるものであるから、あまりその一端だけを真実なものと考えすぎないほうがよい。
世に処しては功を求めざれ、過ちなきはすなわち是(これ)功なり。人と与にしては徳に感ずることを求めざれ、怨みなきはすなわち是徳なり。
幸福は求めて得られるものではない。機嫌よく暮らして福を招くもととするほかない。
会話は簡明に。人と話をする場合には、大変口数多くべらべら喋って、それに心を傾け過ぎることがあってはいけない。ただ言葉を簡単にし、意味がよく先方に通ずるようにすることが大切である。
親しむべき友とは、本当に助けになる人、苦楽を共にする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。
友に交(まじわ)るには、須(すべか)らく三分(ぶ)の侠気を帯ぶべし。人と作(な)るには、一点の素心を存するを要す。
人とつきあうのに、白か黒かでレッテルを貼ってはならない。善悪賢愚、さまざまな人々を平等に受け入れるのが望ましい。
好んで大言(たいげん)する者は必ず小量である。
人の知恵を借りれば間違いが少ない。自分自身に関わる重大事で方向を決めかねるようなことは、必ず思慮ある人に相談して、忠告に従うほうがよい。
汚い土地には多くの作物ができ、澄みすぎる水には魚は住まない。君子は世俗の汚れを受け入れる度量をもつべきであり、独り潔癖であるべきではない。
伏すこと久しきは飛ぶこと必ず高し。開くこと先なるは謝すること独り早し。
順境にいるとき、逆境に備えよ。
世の人は自我というものにとらわれすぎるから、ものごとの好き嫌いが甚(はなは)だしく、さまざまな悩みが尽きないのだ。
伏すこと久しきは、飛ぶこと必ず高し。
冷眼(れいがん)にて人を観、冷耳(れいじ)にて語を聞き、冷情にて感に当(あた)り、冷心にて理を思う。
人生、一分を減省せば、すなわち一分を超脱す。
己れの長を以(もっ)て人の短(たん)を形(あらわ)すことなかれ。
歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自らせきたてて短くする。天地は、元来、広大なものであるが、心根の卑しい者が、自ら狭くする。四季は、元来のどかなものであるが、あくせくする者が、自ら煩わしいものとしている。
人に与えて徳を感ずることを求めず、怨(うら)みなきはこれ徳なり。世に処して功を求めず、過(あやま)ちなきはこれ功なり。
己れを舎(す)ててはその疑いに処することなかれ。その疑いに処すれば、すなわち舎(す)つるところの志多く愧(はじ)ず。
自分のつらいのを忍ぶのはよいが、人のつらいのを見ていてはいけない。
(一歩を譲りて)歩(ほ)を退(しりぞ)くるは即(すなわ)ち歩を進むるの張本(ちょうほん)なり。
快に乗じて事を多くすべからず。倦(けん)に因(よ)りて終わりを鮮(すく)なくすべからず。
やめるのに適当な時機というものを見付けてからと思うと、いつまで待ってもその時機がくるものではない。
己れをかえりみる者は、事に触れて皆薬石となる。
世渡りで身を保って行くには、あまり潔癖すぎてはならない。一切の汚れや穢れも、すべて飲み込むようでありたい。人と交わるには、あまり几帳面すぎてはならない。一切の善人悪人、賢者愚者をも、すべて包容することができるようでありたい。
(人と交わるとき)平気で人に出費させておきながら自分は金を出すまいとしたり、人の金で自分が楽しんだりするのはいやしいことだ。こういうことは、自分の心の持ち方にも害を及ぼすことになる。
いくらすべてがきちんとしていても、金銭のやりとりに潔癖でなくて、貪欲だったりすれば人に軽蔑される。
道徳仁義の心を放下してこそ真に聖人の域に入ることができる。道徳仁義に捉われては、融通の利かない人間になり、悠々として自適する達人とはなれないからである。