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鴻上尚史

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鴻上尚史は、日本の劇作家・演出家であり、新居浜市出身で、愛媛県立新居浜西高等学校、西賀茂寮に入寮し駿台京都校を経て、早稲田大学法学部を卒業し、演劇の技術を学ぶため浪人生活を経験した。その後、代表作となる「八月の犬は二度吠える」を著し芸術界で一躍、有名になる。また、現在は、日本劇作家協会会長(代表理事)、日本劇団協議会・日本演出者協会理事を務めている。

子育ては、「子供を守り、子供の世話をやくこと」ではありません。子育ては、「子供を健康的に自立させること」だと僕は思っています。
「子供とのつきあい方」のアドバイス、それは、「子育てをがんばらない」ことです。一生懸命、よかれと思ってやったことを否定されるから、可愛く思えなくなるのです。真剣にがんばってしまうから、理屈が通じない時にキレそうになるのです。
「理屈が通じない」理不尽に直面した時に、それを乗り越えるには、まずエネルギーが必要です。そして、エネルギーはちゃんと寝ないと生まれません。
僕が「絆」という言葉があまり好きではなく、うさんくさく感じる理由は、「ひとつにまとまること」そのものが目標になることが多いと感じるからです。ひとつになるのは、目的があるからで、目的を成し遂げることより、ひとつになることに比重が置かれ目標にするのはおかしいと感じるのです。
「あなたの人生に、ベッド・シーンはあっても、ラブ・シーンはないのね」
道に迷っている目の不自由な人に「どうしました?」と話しかける時、僕には無意識の優越感がなかったのか。お年寄りに話しかける時、ハンディキャップを持った人に話しかける時、対等な関係ではなく、「あなたを守りますよ」という無意識に見下す意識がなかったのか。たぶん、あったんじゃないか。
子供の成長は楽しみですが、子供の成長しか楽しみがない、という状態は問題です。それはお互いを不幸にします。
死に物狂いの気力とか荒れ狂うガッツとかがないと、プロの俳優という山は登れないのです。
(演技が)うまくなければプロになれませんが、うまいからと言って必ずプロになれるわけではありません。死に物狂いの努力をしなければプロになれませんが、死に物狂いの努力をしたからと言って必ずプロになれるわけではありません。
「自尊意識」とは、自分を大切にし、自分をバカだと思わず、自分が生きていていいのかと疑問に思わず、自分の発言に自信がなくて言いたいことが言えないなんてことがない、自分はかけがえのない自分であるという意識です。
日本では、「自尊意識」にたいする教育はほとんどなく、道徳の時間を含めて、「同調圧力」に敏感になることは繰り返し教えられる。
(私は)「相談があるんだけど」と言われた場合だけ、相談に乗ります。相手が話す気持ちになってないのに、「話してみて」「相談に乗るよ」「何でも言って」と言うのは、相手を苦しめることになると思っているのです。
「かわいそう。 何かしてあげたい」と思うことは、とても気をつけないと相手を無意識に見下すことになるのです。
僕は、「俳優になろうと思うんです」と言われると、「やめた方がいい」と答えます。それでへこんでしまうような人は、そもそも、俳優を目指すエネルギーも続ける気迫もないと思っているからです。
無理解な親は、いつも「あなたのためと思って」と言います。
立場が違えば、ただ(自分についての)事実を語っただけで自慢と取られます。
「不幸な人は、自分を不幸な人だと思われることが嫌で、一緒に解決策を考えて欲しいなんて求めてない」なんて場合もあります。
僕たちはどうやら、幸福には鈍感で不幸に敏感なのだと思います。
やっかいな存在である「他者」とどう付き合えるかは、自分の不安とどう付き合えるかとも言い換えられる。
(人に悩みを)話すということは、自分の苦しみをもう一度確認することです。やっかいな状況と向き合うことです。それは、ある程度の精神的強さがないとできません。
アドバイスをしても、それを最終的に実行するかどうかは、本人の問題だ。
精神的余裕は、(自分の)悩みを理解してくれる人と話さないと生まれません。
アメリカにも「同調圧力」はある。でも、それは日本ほど強くはない。だいいち、みんな「自尊意識」を持つように教育されている。アメリカの教育の目的は、健全な「自尊意識」を子供に持たせることで、これが「同調圧力」と戦う動機と理由とエネルギーになる。
相手を「かわいそう」と思った段階で、対等な人間関係は結べないと思います。「あなたのためにしている」と思った場合も同じです。
苦労しているのが自分だけじゃないと分かると、人間はなんとかやっていけるのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
「独りよがりのアドバイス」というものがあるとすると、それは、相手の事情を想像しないまま、自分の当り前だけを前提にするアドバイスのことです。
「他者」とは、受け入れたいのに受け入れられない関係であり、受け入れたくないのに受け入れなければいけない関係のこと。