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ニーチェ

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ニーチェは、プロイセン王国出身の哲学者で古典文献学者。また、実存主義の代表的な思想家の一人としても知られています。バーゼル大学で古典文献学の教授となり、辞職後は在野の哲学者として活動しました。独特の巧みな散文表現が高く評価され、文学的な価値も認められています。

どれほど深く悩みうるかということが、ほとんど人間の位階を決定する。
人が自分のよからぬ性質や悪徳を隠そうがあからさまに打ち明けようが、結局いずれの場合にも彼の虚栄心がその際得をしたがっている。誰の前でああした性質を隠し、誰の前で正直に率直になるかということを、彼がいかに巧妙に使い分けるか、よく気をつけてみるがいい。
ある事柄をまったく深く捉える人々は、いつまでもその事柄に忠実であることは稀である。彼らはまさしく深みを光に晒したのである。そこにはいつでも具合の悪いものが沢山見当たる。
我々一人ひとりの気が狂うことは稀である。しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。
記憶が言う。それをしたのは私だと。自尊心が答える。そんなことをこの私がするはずはないと。
悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。
恐らくは、今日のもので未来を持つものは他に何もないとしても、やはり我々の笑いこそはなお未来を持つのだ!
愛せなければ通過せよ。
人間は汚れた流れである。それを受け入れて、しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。
人々がいつでも正直なことを言うのはなぜか。神が嘘を禁じたからではない。それは、嘘をつかないほうが気が楽だからである。
真の思想家が何よりもあこがれるのは閑暇であるのに、凡な学者がそれを回避するのは、閑暇をどうして始末するかを知らないからである。その折りに彼を慰める者は書物である。
表にはさながら悪意のごとく振舞う、気位の高い慈愛もある。
医者よ、あなた自身を助けなさい。そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。自分自身を癒す者を、目の当たりに見ることが、病人の何よりの助けになるようにすれば良い。
善にも強ければ、悪にも強いというのが、もっとも強力な力である。
道徳的理想の勝利は、ほかのいずれの勝利と同じく、「非道徳的」手段によって、つまり暴力・虚言・誹謗・不正によって得られる。
我々に関する他人の悪評は、しばしば本当は我々に当てられているのではなく、まったく別の理由から出る腹立ちや不機嫌の表明なのである。
極端な行動は虚栄、普通の行動は習慣、卑劣な行動は恐怖に帰されるならば、過失を犯すことはまずなかろう。
結婚は、愛という多くの短い愚行を終わらせる。一つの長い愚行として。
人間は行動を約束することはできても、感情は約束できない。自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ。
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
轢(ひ)かれる危険が最も多いのは、ちょうど一つの車を避(よ)けた時である。
道徳とは個人における畜群本能である。
才気に富んだ人たちをある命題に賛成させるには、時として、それを途方もない逆説の形にさえしてみせればいいことがある。
学者や芸術家との交際においては、評価を反対に誤ることがよくある。注目すべき学者の背後に凡庸な人間を、また、凡庸な芸術家の背後にしばしばきわめて注目すべき人間を見ることが希ではない。
あなたがたは高められたいと願うとき、上方を仰ぎみる。だがわたしはもう高みにいるから、下方を見下ろす。あなたがたの誰が、高められて、しかも同時に哄笑(こうしょう)することができるだろうか?最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を笑うのである。
少なくとも一回は踊らない日は、失われた日だ。
同情を表示するのは軽蔑のしるしと感じられる。同情が示されると、直ちに相手の怖れの対象でないことがはっきりするからである。
ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!
私は君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。私が勧めるのは官能の無邪気さだ。
「彼にとり入りたいのか? それならば、彼の前に出て当惑のさまを示せ・・・」
賞賛の中には、非難の中よりも、より多くの鉄面皮がある。
狂気はどこにあるか。それを汝らに植え付けねばならぬのだが。
ある巨匠の作品を演奏するピアニストが、その巨匠を忘れさせて、まるで自分の生涯の物語を語っているとか、まさに何か体験しているふうに見えたとき、最もうまく弾いたことになろう。
愛または憎しみと共演しないとき、女は凡庸な役者だ。
友たるものは、推察と沈黙に熟達した者でなければならない。
キリスト教道徳は奴隷の道徳、弱者の道徳である。生の拡大を妨げ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる道徳である。
悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳。この善悪の価値表は、速やかに破り捨てなければならない。
武装平和とは、自国と隣国を信用せず、半ば憎悪、半ば恐怖から武器を放棄しかねる意向上の平和である。
世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。
不満というものは、不満の誘因があとで除かれるだけでもう癒されているというわけにはいかぬ一つの肉体的な病気である。
いったん灰になることがなくて、どうして新しくよみがえることが望めよう。
最も良い作家とは、文学者であることを恥ずかしく思っている人間だ。
多く考える人は党員には向かない。というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである。
脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じことである。それは精神であることをやめる。
男は、相手に苦しみを与えたと思って涙を流すが、女は、相手を十分に苦しめなかったと考えて涙を流す。
現存在の最大の生産性と最大の享楽とを収穫するための秘訣は、危機に生きるということである。
決定的なものは「是が非でも」の上にしか打ち立てられない。
論争に応ずる場合には、双方にとっていちばん不愉快なやり口は、立腹して黙っていることである。というのは、攻撃者側は、一般的に沈黙を軽蔑のしるしと考えるからである。
樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ。
「自分はなぜ生きるか」を知っている者は、ほとんど、あらゆる「いかに生きるか」に耐えるのだ
悪とは何か。弱さから生じるすべてのものだ。
外国語を少ししか話せない人は、上手く話す人よりも外国語を嬉しがる。楽しみは半可通の人にある。
到達された自由のしるしは何か?――もはや自分自身に対して恥じないこと。
常に称賛を要求するような神の存在を私は信じることができない。
真の男の中にはひとりの子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。
私は人間ではない。私はダイナマイトである。・・・私は宗教的な人と接触した後では手を洗わずにはすませない。
結婚とは一つのものを創造しようとする意志だ。その一つのものは、それをつくる二つのもの以上のものだ。
孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる。
私が望みたいのは、君たちが、あらゆる種類の隣人たち、またその近所の者たちに堪えきれなくなることだ。そうすれば君たちは、自分自身の内部から、友とそのあふれる心情とを創り出さざるをえなくなるだろう。
復仇は、みずから呼んで「刑罰」となす。それは、一つの虚言をもって良心のやましくないことをよそおうものだ。
職業は生活の背景である。
芸術こそ至上である!それは生きることを可能にする偉大なもの。生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である。
英知は知識にすら制限を加える。
この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、危険に生きることである。
善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。そして、一切の価値を粉砕せねばならない。
たくさん入れるものが人にあれば、一日には百ものポケットがあるものだ。
ものの始めを探すことで、人間は蟹になる。歴史家は後ろ向きにものを見る。ついには後ろ向きに信ずるようになる。
いったん選んだ道に関して頑張る人は多い。目標に関してそうする人は少ない。
過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。
夢想家は自分自身に嘘をつくが、嘘つきは他人にだけ嘘をつく。
我々が不意にある事柄について問われた場合に思いつく最初の意見は、一般に我々の意見ではなく、我々の階級・地位・素性につきもののきまり文句にすぎない。
同情されたがる渇望は自己陶酔、しかも、隣人の懐を傷めての自己陶酔の渇望である。
繊細な魂は、誰かが自分に感謝する義務があると知ると塞ぎ込む。粗野な魂は、自分が誰かに感謝する義務があると知ると塞ぎ込む。
真実の山では、登って無駄に終わることは決してない。
人の性質は、永久に前に進めるわけではない。引き潮があり、差し潮がある。
自分の意見を隠すか、さもなければ、その意見の陰に自分を隠すか、そのいずれかがよい。
大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。この苦痛のみが、我々を最後の深みに至らせる。
飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。
男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。そして男が女を愛するのは、それが最も危険な遊びであるからだ。
結婚するときはこう自問せよ。「年をとってもこの相手と会話ができるだろうか」そのほかは年月がたてばいずれ変化することだ。
苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人をつくる。
女にはあまりにも長い間、暴君と奴隷とが隠されていた。女に友情を営む能力の無いゆえんであって、女の知っているのは恋愛だけだ。
独創的――何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを、新しいもののように観察することが、真に独創的な頭脳の証拠である。
才能が一つ多いほうが、才能が一つ少ないよりもより危険である。
我々が広々とした自然にこれほど居たがるのは、自然が我々に関してなんら意見を持っていないからである。
私は隣人に対する愛を諸君には勧めない。私が諸君に勧めるのは遠き者に対する愛である。
「文化国家」とは、近代的観念にすぎない。一方は他方を食っていき、他方は一方の犠牲において繁栄する。文化のすべて偉大な時代は、政治的には没落の時期である。
精神の名士たちの人間味は、無名の人々と交わって、愛想のよい仕方で自分の言い分を引っ込めるところに成り立つ。
人間に対して控えめの人は、事柄(都市、国家、社会、時代、人間性)に対してはそれだけひどく自惚れを見せる。これが彼の復讐である。
ある程度までのところ、所有が人間をいっそう独立的に自由にするが、一段と進むと所有が主人となり、所有者が奴隷となる。
あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分のニを自己のために持っていない者は奴隷である。
目的を忘れることは、愚かな人間にもっともありがちなことだ。
人は、説明のついた明瞭な事柄よりも、説明のつかない不明瞭な事柄をいっそう重要に受け取る。
貞潔は、ある人においては徳であるが、多くの者においてはほとんど悪徳である。
愛──その手段においては両性の闘い、その根底においては両性の命がけの憎悪。
あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう。
君の魂の中にある英雄を放棄してはならぬ。
アンチテーゼは、好んで誤謬が真理に忍び込んでいくときに通る、狭い門に他ならない。
精神的な人は、そういう人は同時に勇気もある人だと前提しての話だが、精神的であればあるだけ、また痛ましい悲劇にも出会う。だが、彼らはまさに人生が自分たちに大きく敵対してくればくるだけ、その人生を称賛する。
いい手本を示そうとする者は、自分の徳に微量の馬鹿げたところを添えなくてはならぬ。すると人は見習って、同時にその模範を眼下に見下ろす、・・・これが人々の好むところである。