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岡潔

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日本の数学者。1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれた。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授として教えた。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。1941年(昭和16年)、北海道帝国大学研究補助。1949年(昭和24年)、奈良女子大学教授に就任。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)となり、奈良女子大学名誉教授になった。

生命というのは、ひっきょうメロディーにほかならない。日本ふうにいえば“しらべ”なのである。
こういう世相にあって、のんきな数学などは必要ないと思う方もあるかも知れません。しかし、数学というのは闇を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要となるのです。
人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質を持っています。好きにならないのはむしろ不思議です。
広い世界のものには関心が持ちにくく、狭い世界のものには関心が持ちやすい。
人の中心は「情」であって、情の根底は「人の心の悲しみを自分のからだの痛みのごとく感じる心」すなわち観音大悲の心である。
現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない。そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。
人は本来、物質的自然の中に住んでいるのではなくて、魚が水の中に住んでいるように、心の中に住んでいます
いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。
なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う。
人は、男・女性に関するさまざまなことを、さまざまな経験によって知るのではなく、情緒的に、すでに知りつくしていることを、単に経験によって、具体的に知るだけのことなのです。
(情緒とは)野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心。
いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだから、道義というかんじんなものを教えないで手を抜いている。だから、まことに簡単にできる。それ以外には、犬を仕込むように、主人にきらわれないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。
人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です。
数学上の発見に関して西洋人はインスピレーション型、日本人は情緒型。
(人を)ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成長するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。
人間が人間である中心にあるものは、科学性でもなければ、論理性でもなく、理性でもない、情緒である。
全くわからないという状態がつづいたこと、そのあと眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種を土に播(ま)けば、芽が出るために時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてから、かなりの間おかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。
知性は理性と同一ではなく、理想を含んだものだと思う。
(今の人は)個性が出るようにするにはどうするかということを教えなければいけないのでしょうね。個性がなくなりました。
人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。
私は三日かからねば、つまり二晩寝なければ解けないという問題から問題と呼ぶことにしている。
個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかならない。
勘は知力ですからね。これ(=勘)が働かないと、一切がはじまらぬ。
明治以前の日本人は、死ねばそれきりなどとは思っていなかったのであって、この一生をながい旅路の一日のごとく思っていたのである。そして私もそう思っている。
人に対する知識の不足が最もはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。
すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。
数学とは生命の燃焼です。
人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが、宗教の本質ではなかろうか。
もうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時は、もう自然に問題は解決している。