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司馬遼太郎

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司馬遼太郎は日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。彼は大阪府大阪市出身で、1923年(大正12年)8月7日に生まれました。彼は産経新聞社記者として働きながら『梟の城』で直木賞を受賞したほか、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など歴史小説の分野で新風を送りました。また『街道をゆく』などの書籍を通じて文明批評も行いました。

相手を説得する場合、激しい言葉をつかってはならぬ。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。
人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。
人おのおのが志を遂げられる世の中に、したいものだなぁ。
欲は才を走らせる火のようなものだ。
少年少女が、いまの一瞬を経験するとき、過去や現在のだれとも無関係な、真新(まっさら)の、自分だけの心の充実だとおもっているのです。荘厳なものですね。
戦わずして敵の不意を誅(ちゅう)するのが、上乗の戦(いく)さというものである。
人間、ひたすらに頼まれるほど心の弱まることはない。
勇気と決断と行動力さえもちあわせておれば、あとのことは天にまかせればよい。
事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ。
おのおの、その志のままに生きよ。
われわれは人間の集団を生物の次元で考えねばならない時代にきている。
一生に一度ぐらい手品もいいだろうが、物事にゃ実(じつ)がなくちゃ人はついてこない。
偏見を持つな。相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。
男はどんなくだらぬ事ででも死ねるぞという自信があってこそ、大事を成し遂げられるものだ。
君が天才であろうとなかろうと、この場合たいしたことではない。たとえ君が天才であっても君は最高司令官に使われる騎兵であるにすぎない。要は君の使い手が天才であるかどうかということだ。
四、五十人も人数が集まれば、一人ぐらいは異論家はいる。いるのが当然でもある。その一人ぐらいの異論を同化できぬ己を恥じろ。
疲れちょると思案がどうしても滅入る。よう寝足ると猛然と自信がわく。
人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ。
万事、見にゃわからん。
女性というものは、人生そのものだという感じであります。結局、我々男性は果たして、人生を生きているのかどうか、よくわからない。
わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。
人間、不人気では何も出来ませんな。いかに正義を行なおうと、ことごとく悪意にとられ、ついにはみずから事を捨てざるをえなくなります。
小説というものは、迷っている人間が書いて、迷っている人間に読んでもらうものなのです。
人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよい。
人間にとって、その人生は作品である。
人生は一場の芝居だというが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、そのうえで芝居をするのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ。
鋭さを面にあらわして歩いているような男は才物であっても第二流だ。第一流の人物というのは、少々、馬鹿にみえている。
世の既成概念を破るというのが、真の仕事である。
男が自分の技量に自信をもったときの美しさというものは格別なものだが、自らの位階に自信をもった場合は、鼻持ちならなくなる。
英雄とは、自分だけの道を歩く奴のことだ。
おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。
慎重もええが、思いきったところがなきゃいかん。慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ。
人の諸々の愚の第一は、他人に完全を求めるということだ。
人間のいのちなんざ、使うときに使わねば意味がない。
男子は生あるかぎり、理想をもち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。
人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。
智恵よりも大事なのは覚悟や、と。覚悟さえすわれば、智恵は小智恵でもええ、浅智恵でもええ、あとはなんとかなるやろう。
人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。
世に生きものというのは、人間も犬も虫もみな同じ衆生で、上下などはない。
日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である。
自分の防衛に汲々としているようなことでは、大事が成せるか。
皆が持つ微弱なる電流を強くせよ。
自分というものに学校というものは一切存在理由がなかった。自分にとって、図書館と古本屋さんさえあればそれで十分であった。
衆人がみな善をするなら、おのれ一人だけは悪をしろ。逆も、またしかり。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
志を守り抜く工夫は、日常茶飯の自己規律にある。
今は力を培養するときだ。その時機を辛抱できぬのは男ではない。
基準を学問という。基準のない人間は、人から信用されない。美でもない。美でもなければ人から敬愛されない。
通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。
心を変えろ、心を。日本を背負う気になってみろ。その気になって背負えば、日本などは軽いものだ。いやそれがむしろ悲しい。病み呆けた老婆よりも軽い。
食欲と性欲と睡眠欲が三大本能として、四番目は教育する本能、そして教育を受けたくなる本能かもしれません。
地球を動かしているのは、思想ではなく経済だ。
例えば、友達が転ぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中で作りあげていきさえすればよい。
どうすれば戦わずして勝ちうるか、奇計異術では出来ない。誠をもって押してゆく以外にない。
自分に厳しく、あいてにはやさしく。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、「たのもしい君たち」になっていくのである。
人間に本来、上下はない。浮世の位階というのは泰平の世の飾りものである。天下が乱れてくれば、ぺこぺこ剥げるものだ。
人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景をつねに覚悟せよ。勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな。そうでなければ、男子の自由は得られん。
智は時に深く秘せられねばならない。
金よりも大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。
雨が降ってきたからって走ることはない。走ったって、先も雨だ。
時勢は利によって動くものだ。議論によっては動かぬ。
名将の条件は、ひたすらに運である。
一つの概念をしゃべるとき、その内容か表現に独創性がなければ、男子は沈黙しているべきだ。
おれは、かつて、おれ自身に惚れこんだことがなかった。自分に惚れこみ、自分の才を信じて事を行えば、人の世に不運などはあるまい。
仕事というものは全部を(自分で)やってはいけない。八分(はちぶ)まででいい。八分までが困難の道である。あとの二分(にぶ)は誰でも出来る。その二分を人にやらせて完成の功を譲ってしまう。それでなければ大事業というものはできない。
議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬ。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。
先人の真似ごとはくだらぬ。
人間には志というものがある。この志の味が人生の味だ。
人よりも一尺高くから物事を見れば、道はつねに幾通りもある。
何ごとかを成し遂げるのは才能ではなく、性格である。
奇策とは百に一つも用うべきではない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。
一ヶ月に十三、十四回は死を考えています。
財政の独立なくては、思想の独立もなく、行動の自由もない。
人の運命は九割は自分の不明による罪だ。
業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。
どうなる、というのは漢(おとこ)の思案ではない。婦女子の言うことだ。漢とは、どうする、ということ以外に思案はないぞ。
一生というものは、美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている。
動きの中で美人を見いだしている。
古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。
人の世に、道は一つということはない。道は百も千も万もある。
何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。
意味さえわかれば、よいではないか。
いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。