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アラン

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エミール=オーギュスト・シャルティエ(1868年 - 1951年)は、フランスの哲学者、評論家、モラリストで、アランというペンネームで知られています。ペンネームはフランス中世の詩人・作家、アラン・シャルティエに由来します。彼は、1925年に著された『幸福論』で名高く、哲学者や評論家としても活躍しました。アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで、合理的ヒューマニズムの思想が20世紀前半のフランスに大きな影響を与えました。 アランは体系化を嫌い、具体的なものを目の前にして語る手法を取り、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じました。彼は優れた「教師」の一生を送ったと評され、弟子であるアンドレ・モーロワは、1949年に著した『アラン』で彼を「現代のソクラテス」と称えています。

言葉は社会の子である。
どんな小さな努力でも、それをする事で、無限の結果が生まれてくる
何が問題なのかが完全にわかったら、その問題は解決されている。
創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ。よく考えるには方法は一つしかない。それは昔からの検討を経た思想を継承することだ。
子供たちに幸福である法をしっかり教えるべきであろう。頭上に不幸がふりかかるときに幸福である法ではない。周囲の状況がそう悪くもなく、人生の苦しみが些細な心配事や不快事にとどまるような場合に幸福である法だ。
野心家というものは、類のない幸福が手に入ると思って、常に何ものかを追い回している。だが、その男の主な幸福は「忙しい」ということである。
寛大は王権の最後の手段である。しかし、私は厳格な服従によって、その高貴なマントをはいでやる。
悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる。
自分が、その価値に値しないのに、武勇章をつけて得意になっている連中は虚栄心の強い人間である。
困難に陥った時、切り抜ける手だてになるのは自分の意志だけだ。
決して人に向かって、顔色が悪いねなどと言ってはならない。
自由第一主義にあらず、正義第一主義がおよそ社会主義の公式である。
女性の力は精神的な力であり、男性の力は物質的な力である。
自分が崇拝されたり、服従されたりすることを夢想する人間は帝国主義者である。服装・徽章(きしょう)・名前がものをいう華やかな女優は帝国主義者である。
一つの思想に凝り固まったとき、その思想ほど危険なものはない。
いかなる人間の思考も、他人の考えについての思考にほかならない。最も深い思想の人たちは、自分にとってよいものを他人の考えから採択し、それをいっそう前進させるものである。
精神を養うのは交渉しかない。
後悔とは、苦い徒労の後戻りである。それは過失の誤った利用である。
幸福とは、あのショーウィンドウの中の品物のように、好きなものを選んで金を払えば持って帰れるというものではない。
喜びにむかう思想は健康にもむくものである。
大事なのは信じることだ。すべての証明よりも前に信じることだ。信じることの出来ない人は証明がない。
想像とは心の遊びである。自分だけを相手にする勝手な遊戯である。
魂は肉体を拒否する。
外部に支えを求める精神は弱い精神である。
喧嘩をつくるのは倦怠だ。その証拠は、いちばん喧嘩好きなのは、仕事や心配のいちばん少ない人間に決まっているからだ。
嘘つきがいつでも必ず嘘をつくとしたら、それは素晴らしいことである。
人は自分から抜け出すほど一層自分となる。また一層よく自分の生きていることを感ずる。
恐怖には、恐怖に対する恐怖というものしかない。
すべての不運や、つまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうことである。上機嫌の波はあなたの周囲にひろがり、あらゆる物事を、あなた自身をも、軽やかにするだろう。
人間は自信を持ち、貫禄がつき、自分の仕事以外に己がないようになると、平凡なものになる。役所ほど人間を殺すところはない。
悪を原因によって知る人は、決して人を呪いもせず、絶望もしないことを学ぶであろう。
人生はイチゴの味がする
男性的思考は閑暇のときには退屈する。だから、カルタや将棋が男の遊びだ。
青年は恋愛を欲しがり、壮年は地位を欲しがり、老人は貪欲になって地位も金も名誉もすべて欲しがる。
幸福は遠くの未来にある限り光彩を放つが、つかまえてみると、もうなんでもない。幸福を追っかけるなどは、言葉の上以外には不可能なことである。
本当の賭博者は、注意・用意・腕前がものをいう賭け事はあまり好まない。
野心家の主な幸福は忙しいということである。
我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。
少なくとも強い友情というものは、ある不信と抵抗とから始まるのが自然らしい。
結局のところ精神を救い出すのは夫婦である。
敵か、それとも味方か。私が攻撃すれば、敵になる。私がなんの恐れも抱かず、微笑してみせれば味方になる。
夫婦の社会では、それぞれの仕事で各自が相手を助け、あるいは相手を支配する。だから、夫婦は対等だが、異なっている。彼等は異なるからこそ対等なのである。
「衣服は習慣だ」という代わりに「習慣は衣服だ」と言いたい。
他人からもらった快楽というものは、(支払うと)約束しただけのものを決して支払ったことがないのに反し、行動することの快楽は、必ず(支払うと)約束したものより以上のものを支払う。
理想ほど危険なものはない。人が一つの理想しか持たなかったとしたら。
他人に対しても自分に対しても親切であること。人の生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること。これこそ真の思いやりである。
不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある
人間は、自分が自分自身に対して常に最大の敵なのである。
人がいらだったり、不機嫌だったりするのは、あまり長い間立ち通しでいたせいであることがよくある。そういう時、その人の不機嫌に対して理屈をこねあげたりしてはいけない。椅子を差し出してやるがいい。
微笑は笑いの完成だ。微笑のうちでは一切がくつろぎ、何の不安も抵抗もない。だから、母親が子供を見て微笑するよりも、子供は母親を見てもっと上手に微笑する。
羨望は、競争相手がいなくとも羨望する。
女が裏切るときの最初の兆候は、その夫に対して昔のような礼儀正しさと注意深さとを取り戻すことにある。
愛というものは単に優しさだけで(あるいは単に弱さだけで)成り立つものではなく、常にはっきりとして揺るがない一つの信仰、言い換えれば幸福な誓いによってしか十分に表現されない、自由で変化しない何ものかを含むものである。
戦争が欲せられたものではなく、常に余儀なくされたものだと思うがゆえに、戦争の聖なる旗印を自分の回りに探す。
生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である。
人は幸福を探し始めると、たちまち幸福を見つけられない運命に陥る。
握ったコブシを開けば、怒りも消える。
若い頃は、勝手気ままにピアノを弾きまくるのが喜びだった。だが経験を積んでいくに従って、決められた枠の中で弾くことこそが創造力の極みであると気づいた。
困難な仕事は忠実を要求する。天才の条件はいろいろあるが、自分自身に対する誓言をもち、そしてこれを守るということが必須の一条件だ。
二流の思想家というのは、おそらく困難を遠くからながめ、防御態勢をとる人々だろう。これでは戦わぬ先に疲れてしまう。
人間は意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である。
幸福というものの中には、人が考えるよりも意志の力が働いている。
愛するためには第一に勇気が必要である。感傷だけではとかく裏切ることになるであろう。
習慣は我々の偶像であり、我々が服従するから強いのである。
幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。
微笑したり首をすくめたりすることは、心配事に対する対策として知られている。
倦怠する者が倦怠に身をもてあますように、羨望する者は、羨望で身をいじめる。
他人からもらった快楽というものは、(受け取ると)約束しただけのものを決して受け取ることがないのに反し、行動することの快楽は、必ず(受け取ると)約束したものより以上のものを受け取る。
理解は感嘆にまさる。しかし製作は理解にまさる。
困難とは、人がそれを越えて発展しつつ、ある仕方でそれにすっかり身をまかせようとすれば、直ちに人を強めてくれるものなのだ。
結婚は、経験してみたり、辛抱するためにあるのではない。反対に、創造するものだ。
年代順にいえば、恋愛の次には野心が、野心の次には貪欲が来る。
金儲けのうまい人は、無一文になっても自分自身という財産を持っている。
幸福たらんと欲しなければ、絶対に幸福にはなれぬ。
人が毎朝、目覚めるということは、本来、それ自体が、日々、新たな世界との出会いである。その上で、哲学を持ち、新しい「ものの見方」で学んでいくことは、二重の意味での「目覚め」といえる。
いつも人は自分の信ずるところを乗り越えなければならない。少しも信じていないことを、どうやって乗り越えられよう。
もし仮に、絶対の悪人がいるとしたら、それはまさしく、信じることができない人間をいうのだ
人は自分から離れれば離れるほど、それだけ自分自身となる。それだけ自分の生きていることをよく感じるようにもなる。
彼は決心した、というのはいい言葉だ。一語で、決心と解決という二つの意味を示している。
太っ腹に相手を信用してかかり、美点を探すのでなければならぬ。人間に期待をかける人こそ、もっともよく報いられるものである。
信仰のないところに精神はない。
金は必要からのみ金を求める連中を回避する。
物事の手のつけられない厄介さと人間の弱さとを考えたら、何もできやしない。だから、まず行動してみて、それから自分の行為について考えることだ。
いかなる職業でも、自分が支配するかぎり愉快であり、服従するかぎり不愉快である。
人は棚ぼた式の幸福をあまり好まない。自分でつくり上げることを欲するのだ。
自転車は走ればこそ転倒しない。要領の良い連中は、不安定な世の中を遊泳する。
臆病者はしばしば野心家であり、威厳の鎧として権力を求める。なぜなら、他の人々の礼節、ましてや尊敬は、彼の悩みを眠らせてくれる香油であるからだ。
一人でいる限り、人は己自身であることができない。
制服というものは、人間に安堵と尊敬とを同時に与える。そして全ての服装は、多かれ少なかれ制服である。
宿命論が後悔を追い払うのは、人ができることをすべてし尽くした場合に限る。
自分の情念だけで血を騒がせるのは、人間の危険な特権である。
われわれは苦しむ以上に恐れるのである。
社会は、何も要求しない人には、何一つ与えない。ここで要求することとは、たえず要求することの意味だ。
美学的に完璧なものが世の中に二つある。時計と猫だ。
勇気は恐怖を克服する徳。
希望すること、これが幸福なのだ。
期待を持つこと、これが幸福であることだ。
懐疑は賢者の冠である。
成功して満足するのではない。満足していたから、成功したのである。
人類史は記号の歴史、つまり宗教の歴史である。