亀井勝一郎
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亀井勝一郎は1907年に北海道函館市元町で生まれた日本の文芸評論家・日本芸術院会員である。1926年に東京帝国大学文学部美学科に入学した彼は、社会文芸研究会に加入し、マルクス・レーニンに傾倒していた。大森義太郎の指導を受け、共産主義青年同盟に加わり、1928年には退学。なお、この頃から仏教思想に関心を深め、『大和古寺風物誌』「日本浪曼派」など文芸評論・文明批評で活躍した。1966年11月14日に没した。'
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信ずるもの(=信者)の存在するところには、国籍や伝統をとわず神は存在する。「西洋」のキリスト教よりもキリストその人の教えが第一義である。宗教はすべてそういう国際性、むしろ汎(はん)人類性をはじめからもっている。
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あまりにも「気晴らし」の方法が発達し、一切が娯楽的に興行化されるという特徴を現代は示しつつある。どんな事件も調味料を伴った興味本位で流布され、我々は一瞬面白がりながら関心をもち、忽(たちま)ち忘れてしまうという恐るべき状態に在る。まるで人生そのものが気晴らしであるかのように。
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結婚とは一つの賭(かけ)といってもいい。生涯にわたる確実な保証などどこにもない。偶然と偶然の結合である。恋愛によって結ばれたときでさえ、恋愛そのものが美しい誤解に基づくものであるから、その永遠性を保証することは出来ない。しかも結婚によって人間の運命は変わる。とくに女性のそれは男性より激しいであろう。
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いやしくも祖先代々それ(=家の宗教)を祭ってきた以上、自分はどうあるべきか、責任を以(もっ)てこれこそ一度は考えておかねばならないことである。いやなら否定して宗旨を変えたらいい。改めて考えた上で、信じなければならないと思ったら信ずべきだ。そういう自発性の欠如、或(ある)いは厳密性の欠如が、他の思想にふれたときでも無責任のひとつの原因となっているのではなかろうか。
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男も女も同等に空虚(=不安定)であることを知るのが、真の男女同権の基礎ではなかろうか。互いに空虚であるにも拘(かか)わらず、それを自覚しなかったり、一方にだけ空虚を押しつけるとき破綻(はたん)や争いが起こるのである。互いに空虚をみとめあうことで和解あるいは妥協すべきではなかろうか。
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我々は、友人同士の間でよく理解という言葉を使うが、「理解」とは何か。それは互いの誤解の上に成立しているかもしれないのだ。人間の言葉──表現力なるものが極めて不充分で不自由なためもあるが、また我々は表面と裏面とでちがったことを言ったり、時と場合によっては全く別の面から対象を判断したりする。
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エホバ(=キリスト教)の愛は、はじめから赦(ゆる)すための愛ではない。十戒に示されたようにまず神の正義をうちたて、その正義が実行されるかどうか、実行されないところに対しては容赦なくこれを裁断するという、言わば神の義が中心である。その愛とは“義の愛”である。愛の故に「義」はいささかもゆるがせにされない。
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仏書には論証と身証という言葉がある。(中略)宗教を語るとき一番困難なのは、それが身証(=思想の肉体化)でなければ意味ないということだ。宗教について説明するということと、信じるということとは本質的にちがう。
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娯楽と気晴らしは一層刺激的となり、麻痺剤のような役割をしている。しかも何びとも、決して心から楽しんでいない。心からの気晴らしなど存在しない。気晴らしを求めつつ、一層大きな空虚感に襲われているのではなかろうか。