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キング牧師

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アメリカ国内における第二次世界大戦後も続いた人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)とその克服への闘いの指導者として有名な公民権運動家マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが1929年1月15日にジョージア州アトランタに生まれました。彼はアトランタ大学を卒業後、バプテスト派牧師となり、主に当時のアフリカ系アメリカ人の公民権拡大を目指した活動を行いました。宣言「I Have a Dream(私には夢がある)」を行いながら、憲法改正法、土地改革や差別受け入れなどの人権保護活動を行い、1964年にはノーベル平和賞を受賞しました。1968年4月4日には暗殺されましたが、2004年には議会名誉黄金勲章を受章しています。

心の中に夢をしまっておく場所をいつも空けておきなさい。
人は死んでも、その人の影響は死ぬことはない。
おそらく人生で最も罪深いことは、正しいことだと知りつつそうしないことだ。
私にはしなければならない仕事がある、死を恐れてなどいられない。たとえ私が命を失っても、私の死は無駄にはならないはずだ。
私には夢がある。いつの日か、私の幼い四人の子供たちが、肌の色ではなく、人柄で判断される国に住めるであろうという夢だ。
人間はだれでも、創造的な利他主義という光の道を歩むのか、それとも破壊的な利己主義という闇の道を歩むのか決断しなければならない。
人生の意義は、あなたが人生から逃れることでなく、(人生に)何を与えるかなのです。これがわかれば人生は豊かになります。
私には今、夢がある!いつの日にかすべての谷は高くなり、丘や山は低められる。荒地は平らに、歪んだ地もまっすぐになる日が来る、という夢が。
悪を仕方ないと受け入れる人は、悪の一部となる。悪に抵抗しない人は、実は悪に協力しているのだ。
目には目をのやり方で目を奪い続けると、全ての人が盲人になる。
人は、あらゆる葛藤に関し、復讐や報復、攻撃を拒む方法を発達させねばならない。こうした方法の基盤は、愛である。
不正な法を破って処罰を進んで受け入れることは、単に違法行為というのでなく、市民的不服従の道徳的行為を行うということである。
ほとんどいつも、創造的でひたむきな少数派が世界をより良いものにしてきた。
我々は暴力に訴えない。憎しみによって我々自身の価値を落とさない。憎しみからは愛は生まれない。
人のために何かをすることで、誰もが素晴らしい人になれます。
嘘は、生き続けることなどできない。
私たちの公正を得る過程で、私たちは不正な行為を犯すべきでありません。
人は、(自分が)何のために生きているかをいつも考えねばなりません。この問題が解決されるとき、その人は死についてあまり考えなくなります。
地獄の一番熱い場所は、重大な倫理上の争いの中にあって中立の立場を取り続ける人間のために用意されている。
私たちを苦しめるあなた方の能力に対して、私たちはその苦しみに耐える能力をもって応じましょう。
人類は、復讐、攻撃、報復を拒絶する方法を人間の対立すべてにおいて発展させなければならない。その方法の基本は愛だ。
最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。
愛は、憎しみによって混乱した人生に調和を与えます。
今日、選択はもはや、暴力か非暴力かでなく、非暴力か非存在かである。
誰かのためになるのに、学位は要らない。誰かのためになるのに、主語と述語を揃える必要もない。ただ、思いやりに溢(あふ)れた心さえあればよい。愛によって生まれた魂さえあればよい。
科学の力が、私たちの精神的な力をしのいでいる。私たちはミサイルを正しく撃つことはできても、人間を正しく導くことはできない。
この世で、本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない。
非暴力が私たちの時代の重要な政治的・道徳的問題への答えである。
私たちは有限の失望は受け入れなければならない。しかし無限の希望を失ってはならない。
私には夢がある。私の四人の子供が肌の色によってではなく、人格によって判断される国に住む日が来るだろうという夢だ。
法律や条令は、正義を確立する目的で存在するが、それがこの目的に失敗すると、社会的進歩の流れを妨げる危険なほど体系化されたダムになる。
最初の一歩を踏み出しなさい。階段全体を見る必要はない。ただ、最初の一段を上りなさい。
だれでも偉大になりえます。誰かが人々に貢献することができるからです。貢献するためには大学の学位など必要ありません。貢献するために、だれが何をどうするといったことを決める必要もありません。ただ、優美さにあふれた心のみを必要とします。愛によって形作られた魂を。
そのために死ねる何かを見つけていない人間は、生きるのにふさわしくないのではないか。
人は「発言する」ことにのみならず、「発言しない」ということにも責任を持たなければならない。
憎悪は人生を麻痺させるのに対し、愛は人生を苦しみから解放する。
どこにおける不正であっても、あらゆるところの公正への脅威となる。
私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住む日がいつか来る、という夢が。
争いというものは、信用にもとづいた双方からのギブ・アンド・テイクなしには、決して解決しないことを、人生と歴史は流暢に証言しています。
憎しみは人生を麻痺させる。だが愛は人生を解放する。
不当な苦しみはあがなわれると信じて闘い続けてください。
世界にあなたが見たい秩序であれ!
安全でもなく評判もよくないが、良心が正しいと告げる立場をとらなければならない時がある。
結局、我々は敵の言葉ではなく友人の沈黙を覚えているものなのだ。
神はすべてに善を望まれる。あなたが同様にすべてに善を望むなら、神はあなたの中に住まわれる。
不正な人種的隔離を受動的に受け入れることは、抑圧者たちに、彼らの行動が道徳的に正しいと告げることだ。
非暴力は、人々でなく不正を打ち負かそうとする。
私には夢がある、それは、いつの日か、この国の国民が立ち上がり、「すべての人間は平等に造られいることを自明の真理とみなす」というこの国の信条を真の意味で実現させるという夢である。
生産的で幸福な人生は、見つけるものでなく、つくりだすものだ。
どこかの国の「目には目を」という古い法を守っていたら、世の中の人々はみんな目が見えなくなってしまう。
憎悪は人生を混乱させるのに対し、愛は人生に調和を与える。
地獄の一番熱い場所は、重大な選択をせまられたとき、どっちつかずの立場をとった人間のためにとってある。
私たちは、許す度量を持たなければいけない。許す度量が欠けている人は、愛する力も欠けている。
私たちは、潜在的神の子です。愛を通して潜在は現実となります。私たちは敵を愛さなければなりません。彼らを愛することで、私たちは神を知るからです。
暴力は憎しみを増すだけである。憎しみはそのまま残る。暴力に対して暴力を持って報いれば、暴力は増加するだけである。
正しいことをするとき、頃合いを見る必要はないのです。
いかなるものも変化しつつあります。これは真理です。
長生き出来るかどうかなど、今の私にはどうでもいい!
困難な問題に堅固(けんご)な思考で関わろうとする人はめったにいない。たいていの人は、安易な対応をして不十分な解決で終わる。
私たちは、一つの宿命の覆(おおい)に拘束された避けがたい相互関係のネットワークに巻き込まれている。一人に直接影響を及ぼすものは何であれ、すべてに間接的影響を及ぼす。
愛は、敵を友人に変えることのできる唯一の力だ。
本当の人間の価値は、すべてがうまくいって満足しているときではなく、試練に立ち向かい、困難と戦っているときにわかるものだ。
憎悪は人生を暗くするのに対し、愛は人生を明るくする。
愛せよと命じられるとき、私は、コミュニティーを復活させ、不正に抵抗し、兄弟たちの必要を満たせと命じられるのである。
黙って服従することは、しばしば安易な道ではあるが、決して道徳的な道ではないのだ。それは臆病者の道なのだ。
奮闘なしに得るものはない。
大学を出ていなくても、正しい文法で話せなくても、人のために何かをすることができます。ただ、やさしい気持ちがあればいいのです。愛の心があればいいのです。
愛は、憎しみによって暗くされた人生を明るく照らします。
自由は、決して圧制者の方から自発的に与えられることはない。しいたげられている者の方から要求しなくてはならないのだ。
あなたが正しいとき、過激になりすぎてはいけない。あなたが間違っているとき、保守的になりすぎてはいけない。
私たちは、一人で歩くことはできない。そして歩くとき、私たちは常に前に進むと誓わなければならない。私たちは引き返すことはできない。
もし明日、世界が砕け散ってしまうとしても、私は自分のりんごの木を植え続けることでしょう。
真のリーダーとは、合意を探す者ではなく、合意の形成者となる者である。
自由への乾きを、恨みと憎悪の杯を口にすることで満たそうととしてはならない。
私には今日、夢がある。
私の苦悩が高まったとき、私の状況に対応し得る二つの方法があるとすぐわかった──敵意で対応するのか、苦悩を創造的力に変えようと努めるのか。私は後者の道をたどると決めた。
命を掛けてもいいと思えることをまだ見つけていない人間は、本当に生きているとは言えない。
人は、個人的な狭い関心事を越え、人類全体に関わる広い関心事に向かうようになって初めて本当の人生を歩み始めるのである。
真の平和とは、単に緊張がないだけではなく、そこに正義が存在することである。
私たちには今日も明日も困難が待ち受けているが、それでも私には夢がある。
いつの日にか、谷間という谷間は高められ、あらゆる山と丘は低められ、でこぼこしたところは平らにされ、曲りくねったところは真直ぐにされ、そして神の栄光が啓示されて、生きものすべて、ともにそれをみるときがくるでありましょう。
人の真価がわかるのは、喜びに包まれている瞬間ではなく、試練や矛盾に立ち向かうときに示す態度である。
暗闇の中でのみ、星を見ることができる。
私たちは、愛の力で憎悪の力に立ち向かわなければならない。
我々は成功を給料の額や車の大きさで判断しがちだが、本当は人類に対してどんな奉仕ができたか、どんな関わりを持てたかで判断すべきなのである。
愛は、憎しみによって麻痺した人生を解き放ちます。
問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。
人生で最も永続的でしかも緊急の問いかけは、「他者のために、いまあなたは何をしているか」である。
時間は真実に生きる者に与えられる。
闇は、闇で追い払うことはできない。光だけがそれを可能にする。憎しみは憎しみで追い払うことはできない。愛だけが、それを可能にする。
幸せを探そうとしない人は、最も確実に幸せを見つけるようです。なぜなら、幸せを探す人は、幸せになる最も確実な方法を忘れているからです。それは、他人の幸せを探すということです。
人のために何かすることで、誰もが素晴らしい人になれます。自分の目先の利益だけを求めて生きることは、実は馬鹿馬鹿しいことです。
時は中立だ。
人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう。
疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべてが見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏み出すのです。
人を許すことを覚え、身につけなければいけません。許す力量のない者には、愛する力もありません。最悪の人間にもどこか取り柄があるように、最高の人間にも悪い面はあります。これがわかれば、敵を憎む気持ちが薄れます。
すべての進歩は不安定であり、一つの問題を解決しても、我々はまた他の問題に直面することになる。
モラルの領域の弧は長いが、それは正義の方に曲がる。