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九条武子

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九条武子は日本の学者、歌人、教育者、政治家であり、『金鈴』『薫染』などの歌集を残しました。1911年に仏教婦人会の本部長に就任し、京都女子専門学校を設立。1923年の関東大震災で自身も被災するが一命を取り留め、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動など様々な事業の推進を行いました。

生きている自分こそは、生かしてもらっている自分であることに気づくときは、きわみなき聖愛のめぐみに、感謝されずには居られぬであろう。
人々は平等に権利を与えられている。権利は(個人が)これを要求して、はじめて与えられるのではない。
古語は古人のことばである。古語を今人(こんじん)に通ぜしめるには、現代語の意訳を経(へ)なければならない。古語の致命傷はそこに在(あ)る。
迷信を打ちくだくものは智恵である。智恵の前には、淡き僥倖(ぎょうこう)を希(ねが)うこころも、たちまちにして影をひそめるであろう。
ユダヤ人の運命を開拓して行った唯一の力は、ユダヤ人の宗教であった。「民族の成功は、民族の宗教に忠実なることによって得られる」と云(い)う。
世界の歴史は、剣と血の歴史である。
世の多くの慈善を目的とする社会事業は、単に衣食住に対する扶助であるならば、それは貧窮者をして、永くまずしき位置に自足せしめる結果となろう。
いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に
われらの愛は、理智の導きによって、正しき成長をもとめなければならない。そして之(これ)を永く撫育(ぶいく)してゆくものは、おのずからにして鍛え上げられた情操にほかならない。理智に明らかにして、しかも濃(こま)やかなる情操を保持するところに、よき均衡と調和された、ゆたかな生活が展(ひら)かれる。
(悩みを払い去ろう、悩みの影と別れようとするのではなく)光に近づいて、悩みを消してゆく。悩みをみつめつつゆくものこそ、光によって照らし出されている自分を、ねんごろに育て上げることができる。
逝(ゆ)くものはかの水のごとく、暫(しば)らくもとどまらない。
名利(みょうり)の深山にさまようてはならない。しかし、諦らめられぬ煩悩の生活に、人間の悲しい闇がある。愛慾の苦海に沈淪(ちんりん)してはならない。しかし、愛慾の索を断ち得ぬところに、地上の営みの暗い悩みがある。
如何(いか)に小さな存在であっても、われらは疑うこともなきたしかな存在であるところに、一瞬の生命のいよいよ尊きことが知られる。
如何(いか)にうつくしく荘厳されたものでも、天と地との絶えざるめぐみによって、育て上げられたものである。
たとえ一坪の牢獄であっても、厳粛な懺悔の道場であることをさとった人に、なつかしいこの社会が、却(かえ)ってつめたい牢獄となって迎えることは、あまりに悲しいとおもう。
恵みをたえずもとめてやまぬのは、可憐(いじ)らしいことである。しかし常凡な日々のいとなみのなかにも、ゆたかな恵みを見のがしているのは、寂しいことである。
まこととは何か。詐(いつわ)りのないことであると、釈尊は説かれた。なやましき人生において、詐りのないことは、まことに稀有(けう)である。
一切のものはみな生きている。自分のみが生きているのではない。散ってゆく花の命を傷む私たちは、むしろ、生きている一匹の虫の命をも、心からいとしまなければならない。
追憶は永久に若さと新しさとをもっている。あるときは、ほほ笑ましき慰めとなり、あるときは用心ぶかき誡(いまし)めとなって、つねに過ぎこし日を蘇(よみが)えらせる。
自分は生きているという誇りは尊いものではない。感謝の心なき存在は、単に自己肯定の誇りをもてあそんでいるに過ぎない。
絶え間なき地上の争いは、ことごとく不自然な差別から生まれる久遠(くおん)のなやみである
信仰を特異の存在であるかのように思っている人たちは、信仰の門にさへ佇(たたず)めば、容易になやみの索は断ち切れて、みずからの欲するままに、慰安の光がかがやくかのごとく思う。
複雑に調味された美味な料理は、飽くこともまた早い。都会の人よりも田園の人により多くのなつかしさをおぼえるのは、そこに純な人間味が失われていないからであろう。
技巧の加えられたものほど、複雑なすがたを具(そな)える。
追憶の感激をもたない生活を、つづけなければならぬ人たちは寂しい。
如何(いか)なる境遇にも満足し得る人こそ、たとえ逆境に在(あ)っても、恵まれている自分を見出すことができよう。
地上の歓喜は、畢竟(ひっきょう)落花の夢にひとしい束の間のことである。
自然をしみじみと観じ、これより受ける何物かを、生活の上にまで引き入れようとする態度は、魅力に富む東洋人の心境を表示するものであろう。
追憶に耽(ひた)ることによってのみ、慰安をむさぼるのは愚痴である。しかし近代人は、見知らぬ未来を逐(お)うことにのみ心惹かれて、みずからの辿(たど)ってきたなつかしき過去に、何らの感激を見出そうともしない。
得意の時代には、恵まれている自分を反省する人は少(すくな)い。多くは逆境に陥ったとき、はじめて過去の満ち足った日の幸福をおもうのである
平和は人類の念願でありながらも、絶えざる勝敗の賭けごとを続けなければならぬところに、人生のいたましさを思う。
ともに信じ合う世界は、人々が互いの、合掌される感謝の心持によって、はじめて成されるのである。
おしえられた通りに、そのまま守ってゆくのは、もちろん素直なことである。しかし、おしえられただけを守ることは、必ずしも権威あることではない。
理想をもたぬものは、生命を忘れているものである。
人生は働くべく余儀なくされているのではなく、むしろ働かずに居られない。
宗教を事業のために利用しようとするものは、多く無信仰者である。
自然のおしえも、人生の営みも、結局平等たるべく示されている。
単に慾望の満足をはかるために、愛を翫(もてあそ)んではならない。
私たちはほとけの慈悲に馴れて、ほとけを弄(もてあそ)んではならない。みずからの弱い貧しさをかえりみると同時に、めぐまれた救いのよろこびを味わう。弱き者こそ強くありたい。
自ら愛し、また愛せられることが、たとえ詐(いつわ)りのなき素純な愛にせよ、自ら苦しみ、また他をも傷つけるところに、地上の愛のつまづきがある。
形作られたものを、永遠にたもとうとする努力は悩みである。砕けば土塊にすぎない人形の悲しみは、妄執の悩みを離れ得ない、地上のものすべての悲しみではあるまいか。
おしえをもとめながら、ともすれば身の不幸をかこつものは、幸福をもとめるために、おしえを弄(もてあそ)ぶものではあるまいか。
孤独のさびしさにとざされているものこそ、互(たがい)に許し合い、信じ合う世界をもとむる心に燃えているのである。
素純なものは、粗野なうちにも尊いところがあり、技巧の多いものほど、ながく親しみをつづけ難い。
人と人との間の愛は、みずから之(これ)を専有しようとするときに、もろもろの悲しみが生ずる。
梅も百合も、さては名もなき野の花も、自然の寵児(ちょうじ)は、自らに恵まれた個性を、素直に発揮してゆくところに、みずからの生命を愉躍(ゆやく)し、そしてよく他と調和して、自然界の平安な美を保っている。
如何(いか)なる憬れにも充(み)たされぬところに、慾望の波に喘(あえ)ぐ人間の悩みがある。慾望からのがれることのできない憧れは、次から次へと消えて、所詮、あてもなき漂泊の旅をつづけなければならない。
日本婦人の最も讃美すべき特長は、ゆたかに恵まれたその情操である。そして、日本婦人に最も望ましきものは理智である。
世のことごとくが不正不義の中に、ただひとり正義に殉ずる人は尊い。しかし他の不正不義を顧みるところがなかったならば、それは必ずしも正義を擁護する人とは云(い)われない。
狂人は、人の驚く顔をみてよろこぶ。人が驚きさえすれば満足するのである。ゆえに、人を驚かすためには、手段をえらばない。
異境に在(あ)って、故郷の訛を聞いたときは、未知の人にさえも、なにか声をかけたくなる。故郷のもっている強きインスピレーションは、それほどわれらの心を抱擁している。
習慣(=慣習)を根底から打破しようとする企ては、われらの営みを破壊せんとする暴挙に等しい。
古人の残して行った幾多の芸術は、新しいという、また古いという時間的生命に、支配されることはない。そこには時間と共に亡び去ることのない、永遠の生命が躍動している。自らの生命を打ちこんで築き上げた、自らの世界をもっている者の強さがそこにある。
言葉によって尽くし得ないことを、行為をもって補おうとするのは、正しいことではない。近代人は、たがいの本心にふれ合い、たがいに了解するところまで到らずして、ただちに行為を用いようとする。
真と善と美とを包容するものは宗教である。宗教を否定して、真善美の具足を望むことはできない。無宗教徒は、一方に宗教を否定していながら、他方に芸術を唱え、真理を讃美している。
みずからの悪をかえりみ得ないものは、ともすれば自我の小善を高ぶりがちである。
あこがれへの一路の旅は、つねに幾多の試練がくりかえされる。しかし究極の到達を信ずるがゆえに、喘(あえ)ぎくるしむことの、徒労でないことが知られる。むしろ与えられた試練を受け入れることの、愉快をさえ覚えるであろう。
優れた人たちは、地上に在(あ)っては、孤独であるべく余儀なくされているのであるかも知れない。
女の涙はうつくしい。それは冷たい客観の世界から離れた、きわみなき愛の泉からしたたりくる純情の一しずくである。しかし多くの女子は、これをみずからの遊戯として弄(もてあそ)ぼうとする。
おほいなるもののちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや
自然のすがたには何人(なんぴと)も反感をもたない。それはいたずらに飾られた詐(いつわ)りがないからである。
自分の生命を打ち込むことの出来る仕事をもっているものは幸福である。そこに如何(いか)なる苦難が押し寄せようとも、たえざる感謝と新しき力のもとに生きてゆくことが出来る。
美は理想の生活を形づくる要素として、何人(なんぴと)も之(これ)を求めてやまぬところに、完全性へのあこがれに燃えていることがうかがわれる。
みずからの信念に忠実なのは、讃(ほ)むべきことである。しかし理智の光にみちびかれることなくして努力しても、それは結局、無用の徒労に終(おわ)るであろう。
多くの人たちは、単に限られた生命の延長のみをねがい、限りなき生命を育くむことを忘れがちである。千古(せんこ)のおしえを垂れたいにしえの聖者たちや、芸道の上に不滅の光を放った古人の努力をみるにつけても、短い生命を育て上げることの尊さが感じられる。
悩みからぬけ出(い)でたと思った人は、その日から寂しい日を送らねばならなかった。そしてそれは、真実に悩みからぬけ出でたのではなく、ただ悩みを逃避していること。
心に願うすべてのものに恵まれていても、心から信じ、許し合うまことの友は、もとめ得がたいことである。
信仰は一(ひとつ)の奇蹟ではない。宗教はまた気やすめのための、力なき慰めでもない。信仰は荷(か)せられた悩みを逃避するのではなく、悩みの肯定のうちに、救いの光にみちびかれるのである。
日本料理は品の取り合せと、器の趣味に凝ることにおいて、眼の料理であり、支那料理は舌の料理であると云(い)われる。
劇の価値は、事件の推移に在(あ)るのではない。演出者の個性のひらめきによって、異なった表現を創造してゆくところに、はかり知れない芸術の真価が見出される。
何人も、生活を美にみちびくことは大切である。生活をゆたかにするために、みずからを丹念に育くんでゆくために。
静けさを、暗い寂寞(せきばく)とのみ見てはならない。むしろ自分のたましいを喚(よ)び覚ます、平和な心の灯とも観られよう。
聖なるものは、ただ聖なるもののみが知る。
音楽は、民族のことばの発生と同時に生(うま)れた、最初の詩的発声である。
われらの歎(なげ)きは、短き命をもっていることにあるのではなく、瞬間の生命を、よく生かし得ないところに在(あ)る。
自分にのみ恵まれた美を見出すことなくして、いたずらなる粉飾につとめるのは、みずからの内容を、滅ぼし去るものであろう。
ひとり寂しくおることは、一切衆生(しゅじょう)と偕(とも)におることである。
散りゆく花は、風を怨もうとはしない。花は自分にめぐまれただけの本分をはたして、しずかに散ってゆく。
祈りによって、救いを要求するのではない。みずからが、救いの光明のうちに在(あ)るよろこびを、如実に体験するところに、久遠(くおん)の救いの実在が知られる。
人の行為に対する不用意な嘲罵や、いたずらなる讃辞は、もとより妥当でない場合が多い。
何人も、詐(いつわ)りのない世界に住みたいとおもう。いつわりの多い世の中であるそれだけ、信じ合う世界にあこがれる。
生じたものはかならず滅びる。この厳(おご)そかな原則のまえには、男も女も、尊きも賤(いやし)きも、何の差別もない。すべては刻々の生の間に、刻々の滅(ほろび)を迎うるべく運命づけられている。
苦しみをともにすることを強いても、楽しみをともに味わうことを忘れている世のなかは、あまりに寂しいとおもう。
むしろ貧窮に徹したとき、絶望に徹したとき、まことの道はそこに展(ひら)け、まことの力はそこに燃え出(い)でて来よう。
その対照のどういうものであるにせよ、全我をささげてひざまずき得る心の感激をもつものは幸福である。
女は涙そのものを、卑しむべきものにしてはならない。むしろ涙によって象徴される、つつましき純情の、男子よりも多分にめぐまれていることを讃美しよう。
名利の執着をはなれ得ない地上の営みは、いかに麗しく飾られても、畢竟(ひっきょう)、ほろびゆく玩具にすぎない。
何人も自分の運命を予想することはできない。未来は予想し得ないゆえに、より多くの希望も、より多くの努力もつづけられる。人々は漠然たる未来のあこがれの前に現世のたのしさを味わっているのである。
女性が、知らず知らず男子の同情を要求し、之(これ)に甘んじている間は、無気力な弱者たらざるを得ないであろう。
月は古来同一のすがたではあるが、これを眺むる人の心によっていろいろに変ってゆく。そこにまた人生の心境の、如何(いか)に複雑であるかが物語られている。
生命を打ちこんだ自分の仕事をもっている人には、その仕事のどんな種類であるにかかわらず、何人(なんぴと)も尊敬せずにはおられない。たとえその一生に成し遂げ得ずとも、永遠にほろびることのない生命が、そこに見出(いださ)れる。
苦しみは何人(なんぴと)も共にし易い。そこには嫉視と羨望の、浅ましい人間意識を用うる必要なき、同情のみの世界を見出すからであろう。ゆえに苦境に沈淪(ちんりん)した場合は、他人と雖(いえど)も互いに親しみ合う、美しい世界が実現されてゆく。
生命は仕事とともに不滅である。
愉快に働くことのできる人は、それ自身法悦の営みにめぐまれているものと云(い)ってよい。
しばらくも倦(う)むことのない、自然の働きを見のがしてはならない。みずからの営みを、丹念にたもちつづけるものは、如何(いか)なる境涯に在(あ)っても健(すこ)やかに生きることができる。
自然のすがたが、平明にそして敬虔に、おのずからなる美しさを示しているのは、そこに欺瞞(ぎまん)の醜さがないからである。
何人(なんぴと)も卒直に自己を示すときは、無用の行為はすべて跡を絶つことであろう。
みずからの多難な運命を開拓してゆくものは、やはり自らの力である。
調味は物資の欠乏しているところほど発達する。
おしえの中にすむ、――おしえのままに生くるものこそ、如何(いか)なる運命の戯れにも、之(これ)に打ち克つものであろう。