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瀬戸内寂聴

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瀬戸内寂聴は、天台宗の尼僧で日本の作家。2021年11月9日に享年99歳で死去した。大正11年5月15日に徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれた。体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。1988年以降は『源氏物語』などに関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに女流文学賞、谷崎潤一郎賞などを受賞した。

人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。
本当に苦しんでいる子どもに、いろんな理屈を言っても駄目。まずは、子どもを抱きしめてやることが大切なんです。
男と女の関係では、真剣につきあえば、そこにはどんな相手からでも、予期以上の精神的贈り物を受けていることに気づかされる。
多く愛し、多く悩んだ人は、その分他者の悲しみや苦しみを思いやる力がそなわります。
人間に与えられた恩寵に「忘却」がある。これは同時に劫罰でもあるのですが。たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず。忘れなければ生きていけない。
育てたり、育てられたりする男女の愛などは希(ねが)わず、だまって向かいあい、あたためあうだけの愛が、最も自然なやすらぎのある男女の愛と呼べるのではないか。ただしそれは馴れあいと惰性と怠惰にあぐらをかいている世の夫婦の愛とはまったく似て非なるものである。
幸福になるためには、人から愛されるのがいちばんの近道です。
よく初恋は忘れられないといわれてきたが、男と女の愛の間では、私は肉体交渉のない愛は友愛の域を出ず、淡く美しいだけで、互いの人生に強いからみつくような影響のしかたはしないと考える。
死んだ夫がどんなに最高にすばらしく思えても、死んだ夫とはまたちがった、魅力のある男性も無数にいる。
男は相当馬鹿な男でも、自分を見る自分の目というものを持っているものだが(つまり自分の意見というものを持っているが)、女は相当賢い女でも、男を鏡にしなければ自分というものが映し出せない。
死というものは、必ず、いつか、みんなにやってくるもの。でも、いまをどのように生きていくか、何をしたいか、生きることに、本当に真剣になれば、死ぬことなんてこわくなくなるもんです。
女が男を育てるという意味は、男の意識しない才能もひきだし、開花させることだと解釈すれば、男を育てるのは、必ずしも大母性型の教養ある才女でなくても、むしろ悪女の典型のような女でもいいのではないか。
人の苦しみを自分のことのように思いやる。想像力はイコール、思いやり。思いやりイコール、愛です。
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
男は、日常生活では、情の深い女を便利だと喜び、その恩恵に浴していながら、冷たい女に憧れる身勝手な気分がたぶんにある。
生きるということは、自分の中の可能性を引き出して、それに肥料をやり水をやり、思い切り大輪の花を咲かせることだと思う。
私は、全ての苦労を喜びに変えてからこなします。それが一番の健康法と美容法です。ストレスがたまらなくなりますよ。
犠牲奉仕は、男と女の間では長つづきするものではない。マゾヒズムか、サディズムの愛好者でないかぎり、人は他の犠牲になりたくないし、なってもらいたくもない。
一日に一回は鏡を見る方がいいです。できればにっこりと笑ってみて下さい。心にわだかまりがない時は、表情がいきいきしているはずですよ。
人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。
(※愛の)錯覚がとかれ、相手の正体が、正味(しょうみ)のままに目に映りはじめる頃は、相手の目からも鱗(うろこ)が落ち、自分もまたかけ値なしの正体を相手の目にさらしていることを覚悟しなければならない。
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、"縁なき衆生"と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
供養はお金で出来るものではありません。たくさんお金を出したから、仏になった人の菩提(ぼだい)がとむらえるなら、お金持ちの仏だけがあの世で安らぎ、貧乏人の仏は、あの世でも苦しむということでしょうか。そんなことはないのです。
未亡人は、少なくとも二色の女の人生を生きてみる可能性に恵まれたのだと解釈して、胸をはり誰に気がねもなく、夫(=亡夫)の残りの生命まで貪欲に生きていくべきだ。
人間が孤独であることと、この世が無常であることは、生きていく原点なんですね。
人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。孤独は人間の本性なのです。だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
日本の女は何と浮気が下手なことか。(中略)たまたま浮気をすると、たちまちそれが本気になり、大やけどや大ケガをしてしまう。
女以上に、男がいかに女らしい女に郷愁を抱いているかということは、これほど女の職場への進出が多くなってきた現在でも、正月あたりに和服姿でもみせようものなら、「へぇ、そんな女らしいところがあったの」と、見直したり、うれしがったりする他愛なさである。
私が新宗教を否定するのは、結局、教団の金もうけになっているからなのね。
自分だけが幸せであれば、周りの人は不幸でもいい。それは人間の考えることではありません。第一、周りの人が皆不幸で、自分一人が幸福などということはあり得ないのです。
人間が生きるということは自分の欲するものを手に入れたいということと、ある部分では同義でしょう。
人生に倦(う)み、自分を粗末に扱いはじめると、いくらお金をかけて着かざっても、女には、どこか、だらしのない不潔なにおいがにじみだすものらしい。
人が死ぬ時は辛かったことや恨みはよみがえらず、明るい愉(たの)しい想い出だけが押しよせてその波にのせ魂をあの世に運び去るものではあるまいか。
世の中の不平等さや理不尽さを、しっかりと子供たちに伝えることが大切です。
人は自分の体質や情緒の方向によって、自分にふさわしい生き方を選び、それが間違っていたと気づけば何度でもやり直せばいいのである。
生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打ちがあるから生かされているのですもの。
有名な人にならなくても、大金持ちにならなくても、ただ誰か一人の人を幸せにする、誰か一人がその人がいるために心が和み、生きていることがうれしくなる、そういう人になることが人生を生きるということである。
私は、いつでも恋に燃えていたし、恋する自分に夢中だった。(※恋によって)自分が輝いていることが自覚されたし、自分が素直で可愛い女になっていることにうなずけた。
自分の健康と精神の若さと、可能性に、自ら見切りをつけた時から老いは始まる。
妻と愛人と両方がほしい(中略)、優柔不断で欲ばり(中略)、そんな癖のある男は万が一、(※愛人である)あなたと結婚しても、必ずまた同じことを繰り返し、あなたが今度は泣きを見ます。
若き日に薔薇を摘め。
髪型を変えようが、口紅の色を変えようが、気のつかない夫に、夫以外の男が自分の魅力にひきつけられているとしらせてやりたい欲望──それは夫を愛している妻ほど強い感情だ。
(他者への)想像力はみんな持っています。でも、鍛えないと磨り減って鈍くなってしまいます。
「念ずれば花開く」という言葉があります。私は何かをするとき、必ずこれは成功するという、いいイメージを思い描くようにしています。
人の幸せとは、自分がいることにおいて、誰かがもうひとつ幸せになってくれること。それを幸せと言う。
「同床異夢」とは、同じ布団で寝ていても同じ夢は見られないことです。愛の情熱は三年位しか続きません。夫婦は苦楽を共にして愛情を持ち続けるのです。
悩みから救われるにはどうしたらいいでしょうという質問をよく受けます。救われる、救われないは、自分の心の問題です。とらわれない心になれば救われます。
女が男に惚れて、どこにプライドを残す場所があるのだろう。
夫が会社で、どんな仕事をしているのか、よく知らない妻が多いようです。息子や娘が、今どんな音楽を好きなのか、知らない母も多いようです。
男に荷物を持たせなければ、女の恥のように思うケチな根性を捨て、自分で持てる荷物は自分でさっさと運ぶのが女らしい女なのです。
本を読まない青春なんて、青春ではありません。
前から思っているんですが、人間は愛しちゃいけないものはないんじゃないでしょうか。よその亭主だって、愛しちゃいけないわけじゃない。私の心の奥底ではそう思っています。
家族というのは、お互いの喜びや苦しさを、他人の誰よりも親身になってわけあう人間どうしの関係ではないでしょうか。
(※未亡人には)第二の男が、たまたま亡夫に数段劣る男であっても、亡夫の価値を見直すことのできるという特典がある。亡夫以上のすぐれた男にめぐりあえば何をかいわんやである。
(他者への)想像力を鍛えるためには本を読むことです。とにかくよい本を読むことです。
人間なんて、ほんとに弱い者だということを自覚しておいたほうがいいし、だからといって、自分の弱さに甘えないことです。
家庭的な女が、安心して、家庭の中にひっこんでいられる最大のよりどころは、有能な「私の夫」をみて下さいという虚栄心に外(ほか)ならない。
人間は一人では生きられない。支え合うのが人だ。
時代と共に世間の風俗、風習は変化し、それにつれて、人々の思想も道徳も法律も変わっていきます。革新して良くなる場合もあれば、改悪して後退する時もあるのです。
ひとくちにいって、女が惚れこんで、身も心もなく自分を捧げて、貢ぎたい気持ちを起こさせるのが男として英雄ではないだろうか。
人に愛された想い出より、人と別れた想い出を持つ女の方が、しっとりと魅力的なのは、その女が心底から人を呪い人を憎んだ苦しい経験をへて、人を許すことを識(し)っているせいではないかしらと思う。
惚れているとき、そのひとに順応するのは、楽しくはあっても、辛いなどとは言えない。
自分の夫を本当に愛したら、夫を産んでくれた母を尊重し、夫がそうすれば喜ぶと思えば夫の母にやさしく対したくなるのが、本当の愛情だと思います。
女たちにいくらもてても、男どうしの仲で、「あいつとは一緒に呑(の)みたくないね」とか、「あいつ、誘っても面白くないからよそうよ」などといわれているような男は、社会で働いてもいい仕事が出来ません。
苦しんだ人ほど、愛が深いものです。それは他者への想像力が働くからです。
同じ努力をしても成功する人もいれば、失敗する人もいる。どんなに頑張っても実らないこともある。人生とは紙の上の公式通りにはいかないもの。目に見えない何かによって動かされているもの。子供の頃にそれを教えておけば、人生の苦難を乗り越えていく力をもつことができるのです。
人の言うことなんて聞かないでいいの。もっと自由になりなさい。人間の幸せって自由になることでしょ。自由になったら人の(=人からの)悪口なんて受け付けないですよ。「何言ってるの」と言って放っておけばいいんです。
女というのは、だいたいさらわれたいという本能がどこかにあるんですね。さらってくれる男に、魅力を感じるんです。強引でいやだと、知的な人はいいますけど、女の心底には、野蛮に奪われたい、拉致されたいという欲望があるんです。
人は生まれた瞬間から、死すべきものと定められていて、刻一刻死へ向かって歩みつづける運命を持っています。いいかえれば、生きるとは、死ぬことだともいえます。
「私が一人で母を介護した」という人は、それだけお母さんと縁が深かったということでしょう。
どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢う(=出会う)ということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。
人間は他の動物と違っている点のひとつに、自分が社会に、あるいは誰かに必要とされ、需(もと)められているという自覚なしには淋しくて生きていけないのではないか。
切に生ききっていれば、次の瞬間、死におそわれても悔いがないのではないでしょうか。
人間というのは、それぞれの生き方がありますから、あの人の生き方はよくて、この人の生き方は悪いとか、そういうことはない。いつも一所懸命であればいいと思うのね。(中略)結婚というのもそういうものだと思います。
愛情とは相手の欲するものを先んじて与えること。
何をしても自分で責任を持てば、何をしてもいい。
別の男が現れてから、今の男と別れようというような打算がある限り、今の男との関係は腐れ縁でつづくし、あいまいな関係はあなたについて廻(まわ)るでしょう。
「私は何のために生まれて来たんでしょうか」と問う若者がいます。「人間は、他人に尽くすために生まれて来たのです」と私は答えます。人の役に立ち、人のために尽くすこと。それが私たちの生きる意味です。
いいことも長く続かなければ、悪いことも長く続かないはずです。
人間は生まれる場所や立場は違っても、一様に土にかえるか海に消えます。なんと平等なことでしょう。
いずれにしても、大事なのは、自分の責任は自分でとること。これができれば何をしてもいいんです。むちゃくちゃなことをしておいて、あとで困ったら人に泣きつく。これが一番みっともないことですね。
今を切に生きる。
人がこの世に生きていく弾みになるもろもろの感情の中には、ひとりでも多くの人に自分を何らかの形で記憶されたいという願望がひそんではしないだろうか。旅先の樹や壁に自分の名を彫りつけたがる人の習性を、小児性とばかりは笑えない。
男でも、女でも、相手から育てられた時期があるとすれば、恋のはじめから、恋の成長期にかけてであろう。
私は、人がこの世で受ける苦しさ、悲しさ、不幸とよばれるすべてのことは、味わわないより味わったほうがいいと思います。(中略)人は自分の身をもって体験してはじめて、その悲しみも苦しみもわかるのです。
本を読んで想像力を養って、人に愛を感じて優しくする。もうそれだけで人間に生まれてきた価値があるんです。
女はよく、こう言う。「あたしは、彼に、こんなにつくしたのに」それはわかるけれども、考えてみなくてはいけないのは、相手はもうつくされたくないと思っていたかもしれない。女が勝手につくしてくれた。負担でしようがなかった。そんな男ごころもあるのであって、恋愛は想像力が大切というのは、ここであろう。「ほんとうに、彼女はひつこいんだから」男は辟易(へきえき)していることが、よくあるのだ。
男はふっとある日、突然、何もかも投げ出して、すべてのわずらわしい浮世の絆を断ち切って、どこか遠くへ行ってしまいたいと思う動物なのです。
家事が何年も出来てきたという一事だって、それを職業とすることが可能なのである。家事もまたひとつの見事な才能であって、決してすべての女が、料理や掃除がうまいわけではない。
不平等で理不尽な世の中に、人間は送り出される。だからそこに、宗教が必要になってくるのだ。
(自分の)可能性を見つける方法が分からないときは、好きなことを考えればいい。どんな人でも、好きなこと嫌いなことが必ずある。(中略)自分が何を好きなのかを考えることね。
結婚の相手(=夫)を選ぶときの最低の基準は、男の友人があるか、男の仲間に好かれているかによるのがいい。
やさしい女を嫌いな人間、いや男がいるであろうか。やさしさはまぎれもない美徳の一つである。それなのに、やさしさから生まれる深情けが、必ずしも男にとっては女の美徳になり得ないところに、永遠の男女のズレがあり、悲劇が起こる。
この世は四苦八苦の苦しみがあって、いろいろ心に満たされないことも多く、常に悩みに取り囲まれているけれども、やはりこの世は生きるに足る美しい世界であり、そして人の心というものは、甘く優しいものだ。そういう喜びがある。
与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。
妻であろうとしない女、あるいは妻であることを自ら放棄した女が、男を愛する場合、それを支える命綱は「情熱」しかない。
本当に男と女が別れる決心のついた時は、人に訴えたり相談したりはしない。誰かに訴えるのは、自分の心の定まらないため、人に喋(しゃべ)って、自分の心を見極めてほしいという甘えがあるからだ。
信じるという能力は文明の進化につれ失われる。つまり、教育が高まるにつれ失われる。信じる能力は文明とは逆行するのである。
結局、人は孤独。好きな人と同じベッドで寝ていても、同じ夢を見ることはできないんですもの。