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井上ひさし

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日本の小説家、劇作家、放送作家である井上ひさしは1934年11月17日に日本の山形県川西町に生まれました。彼は小説家、劇作家、放送作家として活動し、文化功労者、日本芸術院会員としても認められました。彼は独立志向の家庭で育ち、薬剤師を志向していた父親にコンプレックスを抱えながらも劇作、小説作家として数々の作品を残しました。

どんな本でも最初は、丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると、自然に速くなるんですね。ぼくは速読法というのはあまり信用していないんです。
むずかしいことをやさしくやさしいことをおもくおもいことをおもしろく
それまで与えられた役を演じよう、見事に演じてやろうと力んでいた俳優たちが、ある日、ひょいとその役を生きはじめる。その瞬間が、何にもまして感動的である。
人間はいつかは死を迎えなければならぬわけだが、この「死」という出口から見ると、われわれのやっていることは実に滑稽至極。
人間は生きたがっている。生きたいと思えばこそ、人間は笑劇じみたドタバタ騒ぎを演じ、ときには人生の落とし穴に自分ではまっていやいやながらも悲劇の主人公さえ演じてしまう。
あれもしろ、これもしろと言われるより、なんでもやってよいがこれだけはやってくれるなと言われた方が、仕事はしやすいだろう。そこで、わたしも「…しない一原則」を立てた。一、座付作者を甘やかさないこと。わが社の経営方針はこれだけだ。
生娘(きむすめ)の一番いけない所は、鼠(ねずみ)にはキャッと悲鳴をあげるくせに、狼には笑いかけたりする事なんですよ。
専門書を読むときは、まず目次をじっくり読み込む。泥棒の名人が忍び込む前にその家の構えをじっくり観察するように、専門書を読むときは、その構造を前もって見破る。
人間は書くことを通じて考えを進めていく生き物です。書いたものを世間に発表するかどうかは別として、物を考えるいちばん有効な方法──それは「書く」こと。
「──ので」とか「──から」とか「──なので」「──だから」と書いたとたんに、文章が難しくなってしまうのです。「理由」を、次に言わなければならないからです。
わたしたちは、自分の日常生活を本気で愛していない。
あなたという、一人の個人に起きた面白いことは、ほかの人にも面白いことのはずだから、それがすーっと文章で伝われば、そこで感動が起きるはずです。
時を意識することは、死について考えることとほとんど同義である。そうして、時は過ぎ去り、だれにも恐ろしいまでの正確さで死がおとずれるということに気付くとき、われわれはたとえ数秒の間であれ、敬虔になる。浄化される。
わかりきったことを考え、わかりきったことを書く。これくらい辛いことはないんですが、意外なもの、邪魔なものも、ちゃんと準備しておかないと(わかりきったことは)出て来てくれないんです。
わたしが怖いのは、力があってお金のある人たちが、どんどん日本語を変えていっていることです。それがわたしたちの生活に、やがて効いてくるだろうということなんです。
物書きは、内証のことはとにかく、外面は「誠実」が第一、そして取りこぼしをせぬのが第二に大事。「なんだあいつは。 ひょっとしたら馬鹿か」などといわれたくありません。せっかくこれまで、それだけは、と隠し通してきた苦心がすっかり水の泡になってしまうではありませんか。
わたしの考えでは、文学を鳥にたとえますと、胴体はきっと詩だと思います。片方の翼が小説で、もう片方の翼が戯曲だと思います。エッセイは尻尾でしょうか。
いい喜劇役者は、自分の体の中に矛盾したものを二つ以上併せ持っていないといけないんですね。何か欠けていると同時に、何か過剰なものを持っていること。
書物好きは書棚によって自分を表現する、といってよい。原稿用紙やキャンバスや楽器や舞台だけが自己表現の場ではない、書棚でだって人は己れを現わすのだ、と小生は考える。
題名をつけるということで三分の一以上は書いた、ということになります。
神の手落ちは、理屈の通じない女性を相手にしなければならぬわれら男性に、理屈のわかる頭を与えたもうたことである。
自分の気に入った現実をすべて「カワユイ」一色で塗り潰してしまう。そんなことをしていると、現実Aと現実Bとのちがいがわからなくなる。現実をコトバという鋭利な庖丁で腑分け(これを認識という)することなしにどうやって生きていけるというのか。
下品で卑わいなものでもどんどん放送すればいいのだ。下品で卑わいなだけでおもしろくもおかしくもない漫才は視聴者の支持を失うだろうし、もし、それが結構受けるようなら、ぼくたち日本人が下品で卑わいだということになるだけのはなしではないか。
お客様と作り手たちとは、自分たちではハッキリそうと意識しておりませんが、現在の、この時代の要請をうけて、文化の中継走者の役を果しているのではないでしょうか。
わたしたちは、生命の永遠の連続の、とある中継点で生きているのである。
(文章を上達させるには)とにかく血へどを吐くぐらいたくさん読む。そのうちにきっと好きな文章に巡り合うだろう。そのときは遠慮なく「しめた!」と大声で叫んでいただきたい。喜んでいいのだ。そのときあなたは「立派な文章家」になる資格を得たのだから。
自分に思想のない人間に限って、(作家の駆使する)技法という回線を辿(たど)り損ねて作家の魂の底に降り立つことができず、つい、「おもしろいけれど思想の浅さは否めない」などと口走ってしまうのです。
いい芝居ですと(=いい芝居をすると)、お客様は本当に神様で、生まれたての赤ん坊みたいな顔で、ずーっと、ゆっくり帰っていく。
劇場というのは、神のようになった観客が、人生の織物と出会うところ。生命の輝きが、その輝きを一段とますのを見るところ。
この世には二種類の人間がいる。書物なしに生きることができる奴と、そうではない奴だ。
雄々しくネコは生きるのだ 尾をふるのはもうやめなのだ 失敗おそれてならぬのだ 尻尾を振ってはならぬのだ 女々しくあってはならぬのだ お目々を高く上げるのだ
月には、なつかしいむかしを思い出させる魔力がある。
我々(=作家)の仕事は、(人々の)平凡な一日を特別な一日にしていくことなんです。この詩で、この戯曲で、この一冊の本を手に取ったことで、今日は特別な日になったということを実現していくために我々はいるわけです。
本が父親となれば、たとえばシェイクスピアはホラ吹き親父、モリエールはおもしろ親父、ドストエフスキイはおしゃべり親父、そしてトルストイは説教親父である。
他人様に笑っていただけるなら命も惜しくないと思っている幇間(ほうかん)根性にわたしには、これ(=趣向)以上すばらしい妥協なぞないのである。
習得するのに金のかかるものはいわゆるお稽古事で、金のかからぬものが文化ではないのかしらん。
辞書はよき相談相手であり、友人であり、いろんなことを教えてくれるおじさんなのです。そんなふうに辞書と付き合えば、一生の得ですよ。
理想や将来はいまは無いものです。しかし、ああしたい、こうなりたいという希望を言葉にして設定することで、私たちは理想や豊かな将来に向かって歩いていくことができる。
ぼくは、普通の生活人が血を吐くような思いで稼いだ銭をこそ、巧智をめぐらしてかき集めたい。
書いたから終わったわけではない。読み手の胸に届いたときに、自分の書いた文章は目的を達成し、そこで文章は終わるわけです。
若い人達が、こういう凄く珍妙な言葉を発明して使うというのも世の常です。大人たちのつくった全てに反抗したい気分になる。
難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く。
(日本人は)空から自分たちの生活に届いてくるものは、きびしく見て、よく名前をつけていく。
おまえさん、さっき死にたいと言っていたね。バカなことを言うもんじゃないよ。世の中はじまって以来、死ぬと言って死んだ人はいないんだから。
良い芝居をやった時のぼくらの幸せというのはちょっと類がない。お客様たちがゆっくりゆっくり、名残惜しそうに、おたがい無言で別れを交わしながら、「もう二度と会えないかもしれないけど元気でね、今日はよい晩でしたね、奇跡的な晩ですね」と帰って行く。
「死」はひとりの人間が長い時間かけて収穫し、ため込んだ記憶が一気になくなってしまうわけで、非常に不幸な、かけがえのない損失だと思います。
まだ海のものとも山のものともつかぬ新作へのお客様の信頼と、その信頼になんとか答えようとする作り手側の必死のあがきと、この両者からしか「よい芝居」は生れないのではないか。
観客の好みに適(かな)わせるとはいったいどういうことなのか。それはおそらく「趣向を凝らす」ことだろう、とわたしには思われる。
太宰の文章だったら、どれでもよろしい。彼が格好よくきめたら、そのあとに「なあんちゃって」を付けてみてください、奇妙によく付きます。そしてうんとおかしくなる。たぶん彼も、そうやって読む者を歓迎するはずです。
「楽しい会社、楽しい人生」これこそ究極の経営方針ではないだろうか。
「未来」という言葉があるからこそ、未来を築くことができるのです。
男を言いあらわすのに「可憐虫(かれんちゅう)」というコトバがあることからも明らかなように、男、あるいは亭主なるものは地べたを這いずりまわる虫さながらに、可憐で哀れな存在ではないだろうか……。
問題なのは、接続詞を使うと、何も言っていないのに、すごくいいことを言っているような気になってしまうことです。
好きな文章家を見つけたら、彼の文章を徹底して漁り、その紙背(しはい)まで読み抜く。そして次に彼のスタイルでためしにものを書いてみる。そんな書き方をしては、お手本の文章と似てしまうではないかと首をお傾げの方もおいでだろうが、これが不思議と似ないのだ。
諸芸術においては、作家の思想は魂の底で暴れ狂っているなにものかであって、それに名付けたり、それを言葉にできる代物ではありません。
すべての虚を衝(つ)き、また衝き、さらに衝き、ここに呆れ果てるほどの根気をひとり白熱しつつ注ぐほかはない。そうして死にぎわにたったひとつのこと、虚を衝くことに白熱しつづけた自分を肯定できれば、それで生まれた甲斐があったというものだ。
物語の基本的要素は「謎」である。逆に言うなら、謎の提起とその解明、これこそが物語の正体なのだ。
わたしたちは、よい文学を見捨ててはならぬ。でないとコトバから、ということはつまり現実から見捨てられることになるだろう。
世の中で何よりも大切なものは自分自身である、がしかし、そのように考えているのは自分だけではない。つまり、自分を大切に思うなら他人をも大切にすべきであると、少年は仲間の存在によって気づくのだ。
対象に愛情を持っているかどうか疑わしい無愛想な批評、不機嫌にけなして、渋面でこきおろして、偉そうに踏みつけて、せっかくの芽を無残に毟(むし)り取ってしまう体の、陰気な批評が多すぎるのだ。
だれにも国語をいじくりまわす権利などはない。各人が自分でもっともよいと考える国語を話し、書けばよい。そして差別用語を使う人がいたらそいつを憎み、下品なコトバを連発する人間がいたらそいつに鼻をつまんでみせる、それしか方法はない。
困難は分割せよ。
酒に女にスッタモンダにと、人生学校の科目には金と時間のかかりすぎることが多すぎて、勉強(=人生勉強)に熱を入れすぎると破滅の怖れが多分にある。
「自分は絶対に正しい」という唯我独尊的考え方からはファシズムしか生まれないが、「ひょっとしたら自分は正しくないのではないか」という劣等意識はとにもかくにも民主主義を生む可能性はあるのだ。どんな下らない民主主義でも、ファシズムよりはいいのである。
喜劇の手法が非合理の権威や不合理な神のばからしさを、その正体をあばくのである。
自分の値打ちは自分で、自分たちで決める。
読者は作者の提出した物語に導かれて、自分の周囲に立ちこめている情報の粒子を整理するのである。その結果、身の回りが、足もとが、よく見えてくる。なにが大事で、なにが大事でないかが、たとえ一瞬であっても判然としてくる。神経病みが治るのである。
(批評する時は)まず、欠点をずばずば言う。それで、いいところをおしまいに挙げる。そしたら誰も傷つかない。
日本人というのは哲学やってもしようがないんですね。なにしろ、宇宙の果てがどうなっているか、星空を見上げないから考えない。一生考えたってわかりっこないんだから考えない。
どうせ十年後、あるいは十五年後はわかれわかれのちりぢりばらばらになってしまうのだ。親子に残されている時間はごくわずかである。その貴重な時間を小言でつぶしたくはないのだ。
書物を読むという行為は、言葉から入って、文章を仲立ちに、書き手の心の生活にたどりつくことだ。書き手の心の生活に訪れた感動だの発見だのをつきとめることだ。
美しさなどというものはあくまで見る側にのみ属する事柄であって、見られる側の問題ではないのである。
きれいはきたない、きたないはきれい。すべての値打ちをごちゃまぜにするそのとき、はじめて俺は生きられる。
演出家と演出部スタッフとは、演技者が生きてそこにいる者に変身することを、わがことのようによろこぶ無私の人たちであり、無私であるからこそ、これほど辛い仕事も続けてゆくことができるのです。
「この作品はわからない」という感想を抱いたときは、「わからないのは、作家のせいというよりも、自分のせいではないか」と、まず自分の能力に疑いを持つことが大切です。作品の評価はその次の作業でしょう。
あのときのわたしは、「いまの発言を支持する方がいますか」と、みんなに諮(はか)るべきでした。そして、「支持がなければ、話合いを先に進めます」と議事を進行させればよかったのです。
(若い人達にとって、大人に反抗する)いちばん手軽で、いちばん痛烈なやりかたというのは、言葉を自分たちだけに通じるものにしてしまうことなのです。
人びとは頂上と奈落の差が大きければ大きいほど、その分だけ胸をすっとさせ、魂が浄化されたようなすがすがしい気分になり、退屈な日常へふたたび戻って行く勇気を得るだろう。いわば人々にとってお道化殺しはきわめつきの祝祭なのだ。
ひどい作品を読んだり観たりしたときは、「いい加減なものを作って、よくも俺の愛しているものを汚してくれたな」と一回分の食欲がなくなるぐらい怒ってもらいたい。できれば、その怒りをユーモアに転化して、鋭い皮肉の針でグサリと刺してもらえれば、一層ありがたい。
自分の人生にとって演劇は大事な一部分である、とそう日本人が考えざるを得ないような舞台をつくりつづけること、そうすれば(日本の演劇界の)事情も変わるはずだ。
やや大きめの手帳を用意して、本でも新聞でもなんでも、これは大事だと思うことは書き抜いていく。あとで参照できるように出典とか頁数とかも書いておきます。番号さえ振っておけば、不思議に「あれは三冊目のあの辺にあったかな」ってわかるんです。手が覚えてるんですね。
たがいの生命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに価いしません。
ある高貴な方の系図が日本人の中ではもっともはっきりしているからといって、その方のおっしゃることは必ず正しく、ましてや、神様であるなどと言うのは、かえってその方に迷惑であろう。
真実を、真情を、伝えようとして力瘤を入れればそれだけ、表現はウソへとより近くなる。言葉にはそういうところがあるようだ。
「誠実さ」「明晰さ」「わかりやすさ」──これが文章では大事なことです。
年寄りが身体(からだ)を鍛えるなんざ、あんまりみっともよくないな。それぐらい生きりゃ、もう充分でしょうが。年寄りのトレパン姿は意地が汚くていけません。さもしく生きようとするより、どう死ぬか、そっちへ頭を切り換えたらどんなものです。
鳥は頭を向けた方に飛んでいくが、方向を決めるのは尾っぽである
自分には、死の恐怖を戦うときに格好な武器となるものがあるか、なにか「命がけで愛するもの」があるのか。
自分がこう決めたからこうするんだ、というふうにならないと、言葉を扱うとき間違います。あくまで自分の使う言葉には責任を持つ。外から言われた物差しで自分の言葉を使わないという態度をもつことが大事です。
この青い星を生きのびさせるために人間のまことを尽くした人たち、そしてその立場に立ってものを書き続けた人たち、そういう人たちの言説が百年後の古典になるだろうこと、これだけは間違いない。
わたしは一日や二日、飲み食いせずにいても平気だが、すくなくとも一日に一回、机上に辞典を開き、辞、すなわち言葉を、一個か二個、飲み込まないと、どうも按配が悪い。
偉くなろうとするのは愚かな努力であり、美しくありたいと志すのは莫迦(ばか)なあがきである、とひねくれる、この考え方ですべてを処理して行く精神をパロディ風というのだろうと思われる。
勇気の出る理論が最近の高等数学で立証された。「バタフライ効果」というものだ。たった一羽のチョウの羽ばたきが、海峡の対岸に嵐を起こすことが、可能性としてあるという理論だ。一人の運動が世の中を変えるかもしれない。
偉大な人物もやがては死んで土に還る、傾国の美女も排泄をするし死ねばただの白骨になる。だからことさら偉くなろうとせずともよい、美しくなろうとすることもない。
「あのとき、自分は人生の別れ道に立っていたのだな」あとでそう思い当たってゾッとするときがある。すくなくともわたしは、どんなことをしてでも、まともな道を歩みたい。
「趣向」は世界を決して掘り下げ深めて行くことはしない。妙な言い方になるが、世界を膨らますだけである。「趣向倒れ」になることを用心しながら、わたしはやはり「趣向」を一生追う。
ある選択をするということは、その選択によって生まれるはずのマイナスをすべて背負うぞ、ということでやんしょ。
京都人は、ものを頼んだり、ひとに命令したりすることに長じているのだ。さらに、相手が京都人から命令されていることに気づかせないような煙幕の張り方も心得ている。その煙幕とは婉曲話法であったり、時には、母音の多い、やわらかく包みこむような優美な音だったりする
目先のよく見えるお道化者は、決して頂上を極めてやろうなどという野望は抱かない。またどうしても己が野望を実現したいと思うときは、別のものになって再登場する。
おもしろい物語には二つの特徴がある。まず情報が精選されている。次にその情報がよく整理され、効果的に配列されている。