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香山リカ

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1960年に札幌市で生まれる。小樽市で育つ。東京学芸大学附属高等学校を経て、東京医科大学卒業。精神科医、評論家。元・立教大学現代心理学部映像身体学科教授。教授、臨床心理士、評論家、エッセイスト、政治活動家、ニューウェーブ雑誌『HEAVEN』編集長代理、ピースボート水先案内人、小樽ふれあい観光大使を務めている。ミュージシャンの中塚圭骸は実弟である。

この人生、ラッキーなものにするもしないも、努力と実力次第。
子どもを持つのはすばらしい。それに異を唱える人はいない。しかし、子どもを持たない人生がすばらしいものである可能性も、また大いにあるはずだ。
その行動を勝手に自分に都合よく解釈してそれで「救われた」「癒された」と思えるところにペットのよさはある。
人生に落ち込みや悲しみはつきもの。立ち止まってもため息をついてもいいのだ。
「あいまいなまま様子を見る」という姿勢は、自分と違う考え方、生き方をしている人を排除せずに受け入れるゆとりにもつながる。
人びとがもっとも気にしているのは、「私はこれが好きか、嫌いか」ではなく、「周りの人たちはこれが好きか、嫌いか」である。
人々がスピリチュアルに求めるものの本質は、「私」という存在に対する全面的肯定であり、「いまの自分の明るい気分」ではないか。
自分と他人は理解の度合いが違う。だからこそ、それを埋めるために努力するというのが、コミュニケーションの基本である。
そもそも人間のやることは、白か黒かはっきりしない、絶対的な正解はないもののほうが多いと考えるのがよいのではないだろうか。
「いつも前向きでプラス思考」「あふれるほどのやりがいを感じながら働く」というほうが、人間にとっては不自然なのではないだろうか。
「動物のための愛護活動」に見えて、実は「自分のための愛護活動」
夫に特別な問題があるわけでもないのに、「結婚は失敗だったかもしれない」という人たちにとっては「結婚できたこと」「結婚生活がそれまで継続していること」、さらには「子どもがいること」は最初から当然のこと、という前提があり、その上で「ほかにもっと幸福な人がいる」「自分は不幸だ」と思っているのではないだろうか。
どんなときでも100パーセント、正しい適切な判断ができる人はいない。「まあ、いまのところはそう思っているのだけれど、もうちょっと様子を見てみないと何とも言えないね」といったあいまいさを認めるゆとりが、社会にも人々にも必要なのではないだろうか。
子どもは健康な状態で誕生し、その瞬間に親子という病の病原菌に感染し、それで次第に健康をむしばまれて、最終的には死に至る。途中で自分が親になった場合は、その病原菌を次の世代にも感染させながら。
シングル女性にとっては「心を一歩出ればあとはライバルや敵ばかり」。
信仰を持つ人が少ない日本では、人々は容易に自己の存在や人生に対して疑問を抱(いだ)き、迷い苦しむことになる。
スポーツ大会に出る人は、優勝する自分をイメージしたら、そこで感激の涙を流したり、躍り上がって喜ぶくらいのところまでいったほうがいい。先に感動まで体験してしまうのは悪いことでも恥ずかしいことでもなく、イメージをプレッシャーに変えないためには重要なことなのです。
私たちの世界を深みのある豊かなものにするためには、時間をかけて悩み、苦しみ、答えを出そうともがき苦しむことも必要なのではないだろうか。
家族がいない場合は、(「家族のため」以外の)別の労働の理由を考え出さなければならない。
ただ成功した自分をイメージするだけでは、じつは逆効果。それが今度は“成功しなきゃ”というプレッシャーとなって、その人を萎縮させてしまう。
自分の不安を認めた瞬間、これまで「あいつが悪いんだ」と攻撃の対象にしてきた外的の怪物は幻のように消えてしまい、その怪物は実は自分の心の中に住んでいましたとさ、というブラックなおとぎ話のような結末が待っている。
「わかってくれなくて当たり前」と思って、はじめは行き違いや食い違いが生じても、腹を立てたり、がっかりしたりせずに会話を続けていく。これもコミュニケーションの基本の一つのはずだが、若い世代にはできない人が多い。
ヒリヒリするような実感を伴う「やりがい」がないからと言って、決してあせることはない。もしかするとそれはもう、とっくの昔に手に入っているかもしれない、という可能性も一度、考えて見てほしい。
結婚できたこと、結婚が続いていることは、決して自然現象ではない。
たとえ恋愛がうまくいかなくても、それで「ほかのことはすべて意味がない」とか「私は無価値な人間だ」と考えてしまうような思考のスタイルから、自分を解放する。
コミュニケーションの前提は、自分では当然わかっていることでも、他人はわからない。だから必要に応じて、他人に「こうなってるんですよ」「これはこういう意味なんですよ」と説明し、伝える。
死んでも治らない病、それが親子。
たとえ親にがっかりされても、見捨てられたとしても、それは大したことではない。それよりも自立のほうがずっと大切な人生の課題だ。
成功者であればあるほど、「私の成功は努力の結果だ。 たとえ恵まれない状況に生まれていても、私の場合は、努力で今日の成功を勝ち取っていただろう」と考えることで、自分の成功は必然であり、不動のものであることを自分に納得させようとする。
人間は、「自分と似ていて少しだけ違うもの」に対してもっとも理解や共感を寄せることが難しい。
「私は特別」と思っている人は、好きなアーティストや作家のチョイスもそれなりに特別のことが多く、同世代の友だちがあまり知らない人の名前をあげることが自己愛の充填(じゅうてん)に一役買っている場合さえある。
やさしくきれいだったお母さんがあなたのお母さんの本当の姿で、いま(認知症の)病気に苦しむ姿を“これが私のお母さんの姿なんだ”と思う必要はありません。本当のお母さんの別バージョンというかオマケだと思って、一生懸命、看護してあげてくださいね。
成功者であればあるほど、「私がいまあるのは幸運と偶然の結果であって、一歩間違えれば、私も病気になったり家族に虐待されたりしていま頃孤独な失敗者だったかもしれない」と思えなくなる。
結局のところ、完全に健全な親子関係などありえないのだ。親子である限り、そこには“何か”ある、と思ったほうがよい。
楽や得だけを目指して生きるのはむなしいが、自衛のためにはある程度の「要領のよさ」は必要だ。
視線を真正面からやや上方に向ければ、人は自然に、近未来の自分や社会に思いを馳(は)せやすくなる。
女性は子どもを産み育て、愛する本能を持っている、といういわゆる「母性愛」は、近代家族制度を維持するために捏造された神話である。
たとえ他人が自分のことをすぐには理解してくれなかったとしても、それはその人がダメな人間、つまらない人間だからではない。
チャリティは成功者の義務であり美徳である。
コミュニケーションのコツは「言うが三割、聞くが七割」。
家族として生きない人が増えるということは、「何のために私は働くの?」と労働の意味や意義を求める人が増えるということでもある。しかし、その疑問にしっかり答えられるほどの充実感や満足感を与えてくれる労働は、世の中にそう多くない。
ラッキーと思うのも、アンラッキーと思うのも、自分次第。
視線が下を向くとき、思考も内面や過去に向かっている。
現在の日本では、若者がそれなりの勝ち組になろうとすれば、幼い頃から親が敷いてくれるレールに乗り、甘やかされながら勉強に専念するしかない、というのも現実なのだ。
「子どもを持たない人生を選ぶ権利、選ばざるをえなかったことを認められる権利」も人にはある、ということを忘れてはならない。
不安が、ある特定の状況や対象に特化されて起きるようになると、それは恐怖と呼ばれる。
(他人が)あなたのことを理解できないのは、あなたがダメだからでも、あなたを嫌いだからでもない。まだよく知らないからなのだ。
「この時代に生まれてラッキーだ」と思っている人は、関心が外へ外へと向かったり、得や利益を追求する合理主義的な生き方をしたりするようになる。
この世界の中でからだや顔を持つということは、他者の中で「なにものかであり続ける」ということから逃れられないということ。だからこそ人は、いつも必ずその他者からの視線を感じ、その中でしか自分の顔やからだを確認するしかない。
外に目を向けて、あれこれ考え込まずに、実際に動くことで解決できることもたくさんある。
(就職に関する)最も深刻かつ本質的な問題は、「仕事とは、それを通して自己実現を果たす手段」と言われてあれこれ考え、ついに「私にとって本当にやりたい仕事とは、これだ」という解答が得られたとしても、その仕事に就くことは困難である、ということだ。
手を無心に動かしていると、心に元気が戻ってくる。
「親子関係は病であり、治癒は不可能だ」ともうあきらめて、誰もが粛々とこの病原菌に感染して、あとはじわじわと進行し、症状が重くなるのを受け入れながら、一生が終わるのを待つしかない。
そもそも親子関係は、良い方向へも悪い方向へも過剰になりやすい、という性質を持つ。
「私は不幸だ」「私はつらい」といったん思ってしまえば、ほかの人の不幸やつらさを想像してそれが薄まる、ということはない。
「本当にやりたいこと」など大部分の人は見つけることができないのである。
人間は本来的に対等な関係よりも権力の差がある関係、非対称的な関係のほうが落ち着くのかもしれない。
親との葛藤の経験が乏しい人は、上の世代に対して否定的な感情を抱いたときに、どうやってそれを表現してよいのかわからず戸惑う。そして、そのままグッと我慢してしまうか、あるときいきなりキレたり、「もう辞めます」と辞表を出したりしてしまうことになるのだ。
あらゆる親子関係は病的なのだ。しかもそれは、子が生まれた時から始まり、永遠に治療不可能な病なのである。
心の闇に人間の真実があるのだ。
(「イジメ」や「モラハラ」の)原因になる権力や立場の違いが小さければ小さいほど、「いじめ」や「モラハラ」は陰湿かつ解決が困難になる、。
「悪い時代に起きたことはみな悪い」し、「よい時代に起きたことはみなよい」のだ。しかも、この場合、時代の「悪い」「よい」を決定する最大の要因は、社会の経済状況や発展、成長ぶりだともいえる。
匿名となると、むしろ道徳的でない人ほど自分を棚にあげて“正義の人”になる。
息苦しさの中で感情のねじれが生じている家族の中には、そのことに気づかずに、逆に「ウチは家族がバラバラだ」と思ってさらに密着しようとしているケースも少なくない。
人は、国の少子化防止のために子どもを持つのではない。「幸福」のために子どもを持ったり持たなかったりするのだ。その幸福とは、自分の幸福とは限らない。
自分とは異なる世代、立場の人と、すぐに理解し合えないのは当たり前。ましてはそれが親子、兄弟といった濃い関係であれば、そこに憎しみ、ときとして殺意といった激しい感情が生まれるのも決してめずらしいことではない。大切なのはそこで自分の気持ちを抑え込むことではなく、「お父さん、僕はそうは思わないよ」と気持ちをまず言葉で表現することだ。
多くの場合、今の自分の状態は「自然にこうなった」わけではなく、ある部分はお互いの努力の結果であり、ある部分はお互いの努力を怠った結果である。
いくら「○○大学卒」という肩書きやそれなりの収入があっても、それは自分が生まれた意味や自分のかけがえのなさを与えてくれるものではない。そして、「私はこのために生まれた」という手ごたえがなければ、いくら豊かな生活を送っていても人生は無意味なものに思える。
恋愛は「この人に出会うために私は生まれた」と強く、そして簡単に生まれた意味を実感させてくれる“便利な手段”ではあるが、それは生まれた意味や生きる価値を確認する“唯一の手段”ではない。
家族の保持で保たれるもの、それは「労働のモチベーション」である。今でも多くの男性が、労働の理由として「家族のため」をあげる。
職業選択に有効なのは「職業情報の収集」と並んで「自己理解や自己洞察」というのが定説となっている。つまり、職業を選ぶとは自己を知ること。
人間には、いったんある状況に置かれると、比較する対象が同じ状況の中の人──それも自分より幸福そうな人──だけに限られ、自分が前にいた状況、ほかの状況の人たちのことはきれいさっぱり忘れてしまう、という不思議な性質があるようだ。
(コミニュケーションで)大切なのは、「この人はいまどういう気持ちで何を言おうとしているのか?」と細心の注意を払い、それを配慮しながら自分の次の意見を決め、ときには柔軟に変える、ということだ。
常識的には理論的なほうが信用させやすいのではないか、と思いがちだが、こと弱っている人はシンプルで極端なメッセージによりすがりやすい。
「意識が回復する可能性もないのに、いたずらに生存させておくのは本人の尊厳を傷つける」という考え方には、私は反対である。たかだか人生の最後の数ヵ月や数日で、その人の人生全体の尊厳が損なわれることはない、と思うからだ。
喜びやうれしさに比べて怒りの感情は時間とともに薄れにくく、思い出すたびに更新される。
「家族は何もしなくても気持ちが通じ合うはず、なんて幻想」と割り切り、その上で、「でも家族になっちゃったのだから、お互いをきちんと認めて、なるべく快適に暮らしたい」と考えることが大切だ。
親は選べないが、人生は選べる。
自分の人格をどう成長させ、人生をどうアレンジしていくかの決定権、主導権は、自分自身にあるのだ。
“わが身の不運”にとらわれて萎縮することさえなければ、たとえ名門の出でなくても、成果を上げた人に一目置くくらいの“平等さ”を、私たちの社会はかろうじて残しているはずだ。
本来であれば、成功者たちには、そうでない人たちのために自分の持っているものや知恵を使う役目があるはずなのだが、ほとんどの人(=成功者)は「それよりももっと(自分が)成功することを考えましょう」と前を向こうとするばかりだ。
人間の一生とは、親子という病に感染し、発病し、重症化して死亡するまでの過程である。
子どもにとって、人生の早い時期に一度は、「親は自分の命よりも僕を大切だと思ってくれているんだ」などと実感することが大切だ。
自分の価値は、不実な恋人や失恋くらいでは、まったく変わることはない。
「違いが小さいほど、攻撃の標的になりやすい」というのも、また女性どうしの人間関係の特徴である。
自分とは異なる年齢の家族がともに暮らす家庭というのは、反感、嫉妬、敵意など否定的感情の巣窟(そうくつ)である。同時にそれは、そういった感情をどう表現して問題を解決していくかというトレーニングの場にもなる。
「生きがい」も「自分らしさ」も「よく考えてみたら今がそうなのかもしれない」とゆるやかに気づくようなものであって、「これだ!」と強烈な実感とともに訪れるような種類の感覚ではないのではないか。
妄想とそうではない正常な状態を区別するのは、その話を常識の文脈で理解できるかどうかだ。
「自分探しをしよう」などといいながら、人はいつのまにか、自分の外にある世間や社会のなかに「こんな自分でいたい」「こんな私ならウケるかもしれない」「多数派であるためにはこうでなきゃ」といった“あるべき私、ありたい私”を見つけようとしてしまうのだ。
世界中で動物愛護活動をする人の多くが、「人間より動物が大事」という考えにとりつかれている。はじめは「人間の都合を優先するのはやめよう」あるいは「動物と人間の共存」と穏やかなことを言っているのだが、いつの間にか「動物のためには人間が我慢すべきだ」、さらには「動物のためには人間が多少、犠牲になっても仕方ない」という極端な考えにまで発展しがちなのだ。
「私にとって仕事とは?」「私にとって結婚とは?」と、本来、非常に具体的、現実的であるはずのテーマを観念的に考え始めると、人の思考はかぎりなく自分の内面に向かってしまい、結局は仕事や結婚についてではなくて、自分自身について悩むことになってしまう。そしてその結果、「とりあえず働こう」「とりあえず結婚しよう」ではなくて、「わからないならやめておこう」と現実に足を踏み出すのを断念してしまうのも、現在の就職と結婚の問題に共通した傾向である。
「家族の絆を大切に」といかにも精神論を唱えるように繰り返す政治家たちは、本当は「親や病気の家族の面倒くらい、社会保障費を使わずに自分たちで見なさい」と言いたいのではないだろうか。
「自分に合った仕事がわからない」とグズグズするよりは、徹底的に自分が好きなことを見つめて、そこから職業イメージを作り上げていくほうがずっと前向きだ。
自己愛が強い人というのは、たいていの場合はそれが満たされず、常に不満を感じている。
「この人とずっとすごすのか」と絶望しているあいだに相手にもう少し積極的に働きかけてみることで、何かが変わる可能性は大いにある。
(孤独死の人に対して)「どんな気分だったんだろう。 ひとりでさぞつらかっただろう」などと想像を膨らませては「本当に気の毒」と哀れみ続けるのは、同情というよりはもはや怖いもの見たさや下世話な好奇心に近いのではないか。
コミュニケーションというのは、「自分の言いたいことを伝える」という三割と「相手の言いたいことを聞いて理解する」という七割で成立している。
「精神疾患の患者さんは時代という回り舞台のいちばん前にいる役者」。特定の人が時代の精神や社会の雰囲気を象徴したり予兆したりしている。
先の見えない時代に未来の計算はとても難しい。だからこそ直感のような感覚がとても重要になる。
「家族」は、理屈ではなく情緒に訴えることで相手を説得しようとするときには最強のキーワードなのだ。