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中野好夫

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中野好夫は1903年8月2日に愛媛県松山市に生まれる。彼は日本の英文学者・評論家として、英米文学翻訳者の泰斗として知られている。彼は徳島中学校でスパルタ教育に反発して退学し、まもなく東京帝国大学文学部英文学科に入学し、翌年卒業。その後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校で英語教師となり、1935年より東京帝国大学助教授として教鞭をとる。叡山の僧兵の大将としても知られていた。

友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。
善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。
もし万一私の霊魂などが、死後にまで生き残り、地獄だか天国だかしらぬが、また同じ後悔と汚辱にみちた一生をウロウロくりかえさなければならないとすれば、それはもう居ても立ってもいられないやりきれなさであろう。
(悪人には)悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがある。
悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。
(善意から起こる近所迷惑のような)善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。
真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。
悪人というのは概して聡明な人間に決まっている。
聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝である。
友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。
ぼくの方で、彼ら(=悪人)の悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。
多くの場合、彼ら(=悪人)は彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。
私自身の願いといえば、できることなら肉体をもった私の、この世での生命が終わるとき、霊魂もいっしょに消滅してくれるなら、どんなにうれしいことか、心からそれを願っている。
死後の生存などというものは、なくて幸福、あってくれてはただもう大迷惑というに尽きる。(中略)要するに、生命などというものは、今のこの世だけでたくさんであり、一つだけでもありすぎる。
善意から起こる近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。
悪は決して無法でない。
金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早(いちはや)くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。
およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗(な)めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。