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東井義雄

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東井義雄は、日本の教育者、浄土真宗僧侶である。1912年4月9日に兵庫県豊岡市但東町佐々木の東光寺に生まれ、1932年に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに、55年間の教員生活を行った。1972年に八鹿小学校校長を最後に定年退職し、翌年より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務めたが、1987年に辞任した。その後、1991年急性硬膜下出血で亡くなった。

自分のために一生けんめい生きるというだけなら毛虫だって一生けんめい生きている
書くということは、自分を整理することである。書くということは、自分を確立することである。
この不思議ないのちそれを 今生きさせてもらっている
根気・根性・性根(しょうこん)、それが人間を決定する。ほんものはつづく、つづけるとほんものになる。
「この子さえいてくれなければ……」と考えたこともある子どもを、「この子がいてくれたおかげで……」と位置づけたときから 教育は始まる。
雨の日には雨の日にしか聞かせていただくことのできないことばを超えた ご説法がある老いの日には老いの日にしか聞かせていただけないご説法がある病む日には病む日のご説法がある
このあたりまえのことの中にただごとでないしあわせがある。
根を養えば樹はおのずから育つ。根の深さとひろがりが樹の高さと広がりになる。
繁栄の毒素にやられ、子どものいのちが衰弱している。教育においては、ものの貧しさよりも ものの豊かさの方が、おそろしい。
生きている健康である手が動く足で歩ける眼が見える耳が聞こえる
ほんものでない自分に対して言わなければならぬことを私は教師顔して他人に言いつづけて来ました。
太陽は夜が明けるのを待って昇るのではない太陽が昇るから夜が明けるのだ
悲しいこと、苦しいことを泣き言の種にするのではなく、自分を磨くことに役立てる。
(老いて)視力はだんだん失われていくが花がだんだん美しく不思議に見させてもらえるようになる
生きるための一切の努力をなげすてて眠りこけていたわたしであったのに目がさめてみたら生きていた(中略)いや生かされていた
青い空も月も星も花も秋風もしごともみんな みんな人間のいのちを養う仏さまお恵みの薬だったんだな
生きているということは死ぬいのちをかかえているということ
そうじは(生徒からの)答案です。授業のあり方が、生活指導のあり方が、一点の誤差もなく正確に表れてくる。
見えないところで見えないものが見えるところを ささえ生かし 養いあらしめている
川は岸のために流れているのではない川のために岸がつくられているのである
ほんものとにせものは見えないところのあり方で決まる
「聞く」は話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な、全身全霊をかけなければできないことはない。
どこへいってもどんなに 逆ってみてもその わたしを待ちだきとりささえつづけてくれるものがあるみんなが無視し見放しても無視することなく 見放すことなくささえつづけてくれるものがある
どの子も子供は星。みんなそれぞれが、それぞれの光をいただいてまばたきしている。僕の光を見てくださいとまばたきしてる。私の光も見てくださいとまばたきしている。光を見てやろう。まばたきに応えてやろう。
雨がふってもブツブツいうまい。雨の日には雨の日の生き方がある。
百千の灯あらんもわれを待つ灯はひとつ
あすがあるあさってがあると考えている間はなんにもありはしないかんじんの「今」さえないんだから
苦しみも悲しみも、自分の荷は自分で背負って歩きぬかせてもらう。私の人生だから。
いのちの方はうんともすんともいわずにちぢまっているというのにひげが のびているいやうんともすんともいわずに刻々ちぢんでいくいのちをわたしにしらせるためにそっとひげが信号を送ってくれているのかもしれない
ひげがのびているということはわたしが生きているということ
(老いて)聴力はだんだん失われていくがものいわぬ花の声が聞こえるようになる
妻ひょっとして これは私のために生まれてきてくれた女ではなかったかあんまり 身近にいてくれるので気づかずにきたのだが…
ひげを なでるうれしいようなさびしいような愛しくてならぬこの なまあたたかい生きているということの肌ざわり
自分は自分の主人公。自分をりっぱにしあげていく責任者。
身近な人のご恩がわからなければ、真のしあわせにはめぐりあえない。
自分は自分の主人公世界でただひとりの自分をつくっていく責任者
九(苦)を越えなければ十の喜びに到り得ない。
一番はもちろん 尊いしかし一番よりも 尊いビリだってある
「老」は失われていく過程のことではあるけれども得させてもらう過程でもある
川は岸のために流れているのではない川のために岸ができているのである子どもは学校のために来ているのではない子どものために学校があるのである
ものほしげなキョロキョロした目おちつきのないイライラした目うるおいのないカサカサした目何かに頭を縛られた偏った目ではしあわせのどまんなかにいてもしあわせなんか見ることもいただくこともできないまませっかく恵んでいただいた二度とない人生をむなしく過ごしてしまうことになるのだ
つらくても、おもくても、自分の荷は自分で背負って生きさせてもらう。
せっかく この世に出していただきながら聞くために耳もいただきながら聞こうともせずに求めようともせずに目をあけたままいねむりしてきたのです(中略)わたしは六十年も目をあけたままいねむりを続けてきたのです
雨の日には雨の日の老の日には老の日のおめぐみ
自転車のタイヤを直接ささえているのは三センチの道はばであってもはばが三センチの道を自転車で走ることは不可能です直接にはたらいているように見えないところも間接には大切なはたらきをしているのです
牛のようによろこびの日も かなしみの日も大いなるものの誓いを信じ願いをかみしめひと足 ひと足ひと事 ひと事ひと時 ひと時を踏みしめ 踏みしめ大切に生きさせていただくのでなかったらどんなに忙しく生きてもせっかくいただいた ただ一度の人生をむなしく過ごしてしまうことになるのだ
最高に不思議なものいのちそれが今ここにある
めぐりあいの不思議に手をあわせよう
牛のようにそのひとつひとつをなんべんもなんべんもよくよく噛み砕き味わいおりにふれことにふれてそれを なんべんもなんべんも はみ返し完全消化して 血にし 肉にし 骨にし生きざまの上に活かさせてもらうのでなかったらいくら読んでも 聞いてもむなしい
眼にみえるものは、眼にみえないものによって、支えられている。
「百千の灯あらんも  われを待つ 灯は一つ」それぞれの家庭に、どんな誘惑にも優ったわが子を待つ灯をかかげよう。
(老いて)体力は どんどん失われていくがあたりまえであることのただごとでなさが体中にわからせてもらえるようになる